
2024年08月04日(日)
=真の教会を建て上げるために=
<使徒書>エペソ4章1~16節
パウロは、『召しにふさわしく歩みなさい』と勧めています。すべての人は、神のもとに来るように招かれています。それでパウロは、自分の回心後の半生を振り返り、主の召しに従って歩む人生のすばらしさを語っています。
でもパウロの回心後の人生は、大変な苦しみと困難を伴ったものでした。 それほどの苦しみを受けながらも、パウロは「主の召しに従って歩む信仰生活はすばらしい」と言います。パウロのそのことばは、どこから出て来るのでしょうか。
パウロは第三の天にまで引き上げられる体験をしました。そのことは、パウロにとって確かな天国の希望となったのです。その確かな希望があるので、パウロはエペソ教会の人々に「その召しにふさわしく歩みなさい」と勧めるのです。
私たちも、神の召しに応えてクリスチャンとなりました。「その主の召しにふさわしく生きなさい」とパウロは私たちにも勧めています。
そして私たちにとって、主の召しにふさわしく生きる生き方は、御霊による一致を熱心に保つ生き方です。<御霊による一致>とは<教会の一致>です。教会全体がイエス・キリストによって一つとなることです。
教会の一致は、一人ひとりが謙遜と柔和の限りを尽くさなければ保つことができません。「謙遜である」とは、自分の心の卑しさを知ることです。うわべだけの謙遜は高慢の別名です。
イエス・キリストの謙遜を教えられた者は、自分の心の醜さを見つめ直さざるを得なくなるのです。
また教会の一致を保つためには、寛容を示し、互いを愛し合う愛がなければなりません。互いを尊重して認め合う平和の絆で結ばれなければ成り立ちません。
教会の一致は、まるでガラス細工のようです。もし教会の中に、少しでも自己中心主義が持ち込まれれば、教会の一致は脆くも崩れ去ります。
でも、そのようなガラス細工のような一致が、イエス・キリストへの信仰を基礎とするときに、聖霊の力により、鉄のような強い一致に変えられるのです。
ですから、一人ひとりが聖霊によってしっかりと神と結び合わされて初めて、教会は御霊による強い一致を保つことができるのです。
そしてパウロが「一致を熱心に保ちなさい」と言う裏側には、教会の一致は“熱心”でなければ保てないとの事実があります。一人ひとりが、イエス・キリストを“熱心”に見続けるときにこそ、教会の中に一致が生まれるのです。
なぜ、御霊による一致を保たなければならないのか。それは「からだ(教会)は一つ」、「御霊は一つ」、「望みが一つ」だからです。その望みは<永遠のいのち>の希望です。
また「主はひとり」、「信仰は一つ」とは、救いに至る道は、イエス・キリストへの信仰以外にはないということです。「バプテスマは一つ」とは、一つなる主への一つなる信仰の現われであるバプテスマ(洗礼)も一つだということです。
そして、一人の主、一つの御霊とともに、すべてのものの上におられる神もお一人です。
それゆえ、三位一体の神は唯一であり、その三位一体の神が私たちに与える希望も一つであり、そこに行きつくことのできる信仰の道も一つなので、「あなたがたは与えられた聖霊によって一致を熱心に保ちなさい」とパウロは熱心に語るのです。
またすべての人は、恵みの賜物として何らかの才能を持っています。それでパウロは勧めます。「キリストの体なる教会を建て上げてください」と。
すべての信仰者の一致が無くては教会を建て上げることはできません。
すべての信徒が、イエス・キリストへの信仰と知識を信仰生活の土台として歩ませていただく時に、一人ひとりの一致が与えられ、教会はしっかりと建て上げられるのです。
そして、そのような信仰者が集まる教会が、<キリストの満ちる教会>として堅固に建て上げられてゆくのです。