
2025年08月24日(日)
=信仰生活が恵み豊かなものとなるために=
<福音書>ルカの福音書13章10~17節
安息日の会堂礼拝でイエス様は18年間腰が曲がったままの女性を見られました。それで彼女の上に手を置いて祈られると、腰が伸び真っすぐになりました。
イエス様は誰かに頼まれたこの奇跡を行われたのではありません。イエス様は、自ら積極的に“神の栄光”を現わされたのです。その時から女性は変えられました。
彼女は、晴れ晴れとした気持ちで天を見上げ、賛美して神をほめたたえたのです。イエス様の目的は、あくまでも神をほめたたえることです。
しかし会堂司は怒って「働くべき日は六日ある。安息日にはいけない」と人々に言ったのです。会堂司は律法主義者です。律法主義者にとって「安息日を聖なるものとする」とは、行動を制限して神への敬意を表すことだったのです。
それに対してイエス様は、安息日を「神を賛美し、人を癒す日」として捉えられました。安息日は積極的に神をほめたたえるべき日なのです。
ですから女性を悪い霊の束縛から解放されたことでイエス様は、神の国の到来と神の憐れみの力を人々に示されたのです。それは単なる奇跡ではなく「安息日こそ、神の解放のわざが現れる日である」との霊的なメッセージです。
しかし会堂司はイエス様に直接抗議するのではなく、会堂に集まった人々に向かって“安息日律法”を守るように強い口調で警告しました。
そのような暗にご自分を非難する会堂司を、イエス様は「偽善者たち」と呼ばれます。偽善者とは、表裏のある者のことです。時と場合によって、話していることと行いが食い違う者のことです。それが律法主義者の振る舞いだったのです。
それで、イエス様はこの会堂司一人だけではなく、律法主義そのものを指して「偽善者たち」と非難しておられます。彼らは、安息日であっても、家畜の世話は「命を守る行為」として許容されましたが、病人の癒しは「医療行為」として制限したのです。
「家畜を飼い葉桶から解くことが許されるなら、神の形に造られた人間を悪の束縛から解くことはなおさら許されるべきではないか」。イエス様の叫び声が聞こえて来るようです。
イエス様は、彼らが律法の精神(愛と憐れみ)を無視し、形式だけを守っていると指摘されたのです。
私たちは、律法を守って天の御国へ入ろうとはだれも思っていません。だからと言って「律法は悪いものであり、守らなくてもよい」と考えるのは間違いです。律法には三つの役割があります。
第一は、律法は神の正義の基準を示し、人が悪を避けるように促します。
第二は、人は律法をすべて守り切ることができないため、自らの罪深さを知り救い主を求めるように導きます。
第三は、律法は神に喜ばれる生き方を目指すためのガイドラインとなります。
今日のテーマは「安息日をいかに生きるか」です。神に喜んでいただくために「いかに生きるか」です。ですから人にとって、安息日(日曜日)の生き方の中心にあるのは<主への礼拝>です。ですから、日曜日の礼拝は「守るべきもの」なのです。
18年間病の霊につかれていた女性は、礼拝の場で悪の束縛から解放されました。 私たちは、イエス・キリストの十字架の血潮によって罪の束縛から解放された者です。
それでも私たちは、依然として自分の中に罪があることを知っています。それは、クリスチャンは罪の結果である“永遠の滅び”からは完全に解放されていますが、地上に生きている間は<罪の影響力>を受け続けるからです。
そのことは、逆の視点から見れば、私たち信仰者の地上の人生の歩みは“罪の影響力から解放され続ける歩み”だということです。少しずつ、一つまた一つと解放されるのです。
その歩みの力となるのが、礼拝おいて受ける“主のみことばの恵み”です。まさしく主のみことばは、あなたの信仰者としての日々の歩みを「キリストにある勝利の旅路」とするのです。
私たちも、礼拝から受けるみことばの恵みによって、また日々のディボーションから受けるみことばの恵みによって罪の力から解放され続け、イエス・キリストを賛美しつつ歩ませていただきましょう。
それが信仰者に与えられる勝利の歩みです。