2025年08月17日(日)

=あなたの心が、主によって燃やされるために=

<福音書>ルカの福音書124956

『わたしは、地上に火を投げ込むために来ました』。イエス様が投げ込まれた火は、福音そのものです。イエス様は福音の火を、律法主義が支配する世の中に投げ込まれました。

またその火は<福音の情熱や宣教に対する“使命の火”>でもあります。イエス様が投げ込まれた火は、弟子たちが福音に生き、弟子たちの霊的な覚醒と使命感を燃え上がらせるのです。

では、あなたは聖霊に満たされていますか。主はあなたに問われます。「あなたの心の内に、神の火(福音宣教の火)は燃えているか」と。そうであるなら、私たちこそ神の火に燃やされるべきではないでしょうか。

ですから私たちは、イエス・キリストを見上げ続け、みことばに聞き続けなければならないのです。神の愛とイエス様の十字架の苦しみを教えられたとき、あなたの心の内に神の火が燃えないはずはありません。

<福音に生きる>とは、あなたが聖霊に満たされて、神の愛と真理に燃やされることです。

またイエス様が投げ込まれた“火”はペンテコステにおいて聖霊が降ることも象徴しています。しかしその“聖霊の火”を私たちの内に燃やすためには、どうしてもイエス・キリストの十字架と復活を経なければならなかったのです。

ここでイエス様は弟子たちに覚悟を求めておられます。弟子たちは、イエス様がイスラエルの国を再興して平和をもたらす救い主だと期待していたのです。

ですが、弟子たちが求めていた平和は、あくまで地上の平和でした。地上の平和は一時的な平和であり、いつまでも続く平和ではありません。

しかしイエス様がもたらされる平和は、神との平和であり、いつまでも続く平和です。それはまた、神と人との個人的な契約によって成り立つ平和であり、霊的なたましいの平和です。

地上の平和は、一時的に物質的豊かさをもたらしますが、神との平和は、いつまでも続くものであり恒久的な心の豊かさをもたらします

そのように、神との平和が地上の平和とは異質なものであるがゆえに、人が神との平和を求めたときに、その人の周りで無理解や対立や分裂が起きるのです。

イエス様は<平和の使者>として地上に降りて来てくださいました。しかし神と人との関係においては、イエス様は覚悟を求められました。たとい周りの人たちに反対されたとしても、イエス・キリストに従い続ける覚悟です。

しかしその前に、私たちは自分が弱い信仰者であることを知らなければなりません。弱い信仰者であるがゆえに、イエス・キリストにしがみつくのです。

そのとき私たちは、イエス・キリストにあって強い信仰者とされ、覚悟をもって主に従う者とされるのです。それは私たちより先に、イエス様の方が覚悟をもって父なる神に従ってくださったからです。

イエス様は、父なる神のご計画を成就するために、覚悟をもって地上に降りて来てくださり、覚悟をもって30年余りの地上の生活を過ごされ、覚悟をもって十字架に着いて死んでくださった。あなたの罪を赦すために。

またイエス様は、人々の不信仰を指摘されました。「あなたがたは、どうして救い主の現われを見定め、その救い主に覚悟をもって従うことができないのか」と。

そしてイエス様は、そのような者のことを<偽善者>と呼ばれます。偽善者とは、表の生き方と裏の生き方が違う者のことです。

考えていただきたい。イエス様の怒りのことばは、私たちにも向けられていないでしょうか。私たちもイエス様から「偽善者たちよ」と呼ばれることはないでしょうか。

私たちは、イエス様を私の罪からの救い主と信じるクリスチャンです。この地上にあっても、永遠のいのちの喜びに生きる者たちです。

イエス・キリストは私たちの<信仰の原点>です。イエス・キリストにしっかりとつながっている時に、私たちの内に信仰者としての喜びがわき起こされ、覚悟をもって主につき従う者とされるのです。

それが<福音に生きる者>の姿なのです。