
2025年06月29日(日)
=あなたが主に従い続けるために=
<福音書>ルカの福音書9章51~62節
イエス様は、人間イエスとして十字架で血を流さなければなりません。 それで時が満ち、イエス様は御顔をエルサレムに向け、覚悟を決めて歩み出されました。
イエス様は、まずサマリアの村へ弟子たちを遣わされました。私は、そこに“イエス様の強い覚悟”を見ます。イエス様は、サマリアの人々に何とか福音を伝えたいと願われた。
イエス様は、サマリアの人々の罪を赦すためにもエルサレムへ向けて進んでおられるのです。それでイエス様は、弟子たちをサマリアの村へ遣わされた。
でもサマリアの人々はイエス様の愛を拒否しました。サマリアの人々は、エルサレムを目指すユダヤ人に強い反感を抱いていたのです。
そのようなサマリア人の態度にヤコブとヨハネは大変怒っています。二人は「天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と訴えています。弟子たちの心の中にも、サマリアの人々への敵対心は染みついているのです。
私たちが、ここから教えられることの一つは、私たちはサマリア人の姿に、以前の自分の姿を見出すことです。私たちにも、何人ものイエス様の弟子たちが福音を語ってくださったが、なかなか信じようとはしなかった。
でもイエス様は、覚悟をもって語り続けてくださったので、今私たちは神の愛のうちに生かされているのです。
また私たちは、ヤコブとヨハネのうちに自分自身の姿を見出します。
私たちも気に入らない者を滅ぼしたいと願うことはないでしょうか。私たちもイエス様から「そのような思いは、あなたの罪から出ている」と激しく叱られるべきです。焼き滅ぼされるべきは、私たちの罪です。その私の罪を滅ぼすために、イエス様は覚悟を決めてエルサレムへと進んでおられる。
さてイエス様が尚も進まれると三人の者が、別々にイエス様と出会いました。
最初の者は言います。『あなたがどこに行かれても、私はついて行きます』。弟子としてイエス様に従うためには覚悟が必要です。狐にとっての穴、空の鳥にとっての巣は休む場所です。
でもイエス様は「わたしには休む場所はない。弟子になるとはそういうことだ」と言われる。ここでイエス様は、弟子となる者に“覚悟”を求められています。
人は、弟子としてイエス・キリストに従う時には“覚悟”が求められるのです。
二人目の者は、従う前に「まず父を葬らせて欲しい」と願いましたが、イエス様はその申し出を拒否されました。
イエス様が「わたしに従いなさい」と言われるとき、それは「神の国を第一とする生き方」への招きであり、世の常識や義務を超えて、神の召しに応答する覚悟が求められるのです。
三人目の者は言います。「従う前に、家の者に別れを告げさせてください」。弟子になると決めてから世のことに心が引かれていては、その者はイエス様にまっすぐ従うことはできません。
イエス様が求めておられるのは、全身全霊で神の国に仕える姿勢です。中途半端な従順は不従順の別名であり、条件付きの信仰は不信仰の別名です。イエス様は私たちに、すべてを捨ててご自分に従う覚悟を問うておられます。
では私たちは「断固とした服従をもって主に仕えている」でしょうか。しかし私たちは心しなければなりません。私たちが、断固として主に従うことはできないのです。
私たちの内側には<断固として神に仕える力>を見出すことはできません。
ここで、断固として主なる神に仕えておられるのは、人なるイエス・キリストです。イエス様が断固とした思いで、十字架についてすべての人の罪を赦すために進んでくださった。
まずイエス様が断固として父なる神に従ってくださったので、その事が力となって、私たちは断固としてイエス・キリストに従うことができるのです。だからイエス様は、あなたに<断固とした服従>を求められます。
イエス様への断固とした服従。それはあなたが、主のために特別な何かをすることではありません。あなたがなすべき断固とした服従。
それは、日々イエス・キリストを見つめること。イエス様が、あなたのために何と素晴らしいことをしてくださったのか、決して忘れないことです。
あなたがイエス様の恵みから目を離さなければ、あなたは断固として主に従う者へと作り変えられていくのです。 そしてそのような者の信仰生活は、間違いなく、喜びと希望に満ち溢れるものとされるのです。