
2024年07月07日(日)
=あなたがイエス・キリストだけを見つめるために=
<福音書>マルコ6章1~13節
イエス様の説教を聞いたナザレの人々は驚きました。そのような説教を聞いたことがなかったからです。
人々は、イエス様を小さい頃からよく知っています。親も兄弟たちも知っています。それで彼らは言います。「この人は大工ではないか」と。 このことばには棘があります。
彼らは、人間イエスを見たために、神のひとり子イエス・キリストを見ることができなかった。それでナザレの人々はつまずいたのです。イエス・キリストを受け入れないこと、それがつまずくことです。
実に、人は、イエス・キリストから目を離した時、神の道につまずくのです。
クリスチャンとは、イエス・キリストを見続ける者です。私たちもイエス・キリストから目を離したなら、サタンの誘惑に誘われ、神の道を歩むことにつまずいてしまいます。
世は多くの楽しみや誘惑を人々の前に置きます。それに目を奪われると、人は神の道からそれてしまいます。クリスチャンは、イエス・キリストを見続けなければなりません。
また私たちは、人々にイエス・キリストの福音を伝えたいと願います。神のことばは、多くの場合、人のことばとして語られるからです。
でも私たちは、もっとも身近な人々、すなわち親・子ども・兄弟には福音を伝えにくいと感じます。身近な人は郷里の人であり、その人たちには福音をなかなか伝えられないものです。
ナザレはイエス様のふるさとであり、神の子の住むべき場所です。逆を言えば、神が住むべき場所として選ばれた所が、イエス様のふるさとです。
イエス様は、人々の心の中に住みたいと願われた。あなたの心にもっと深く入りたいと願っておられる。
しかし多くの人々は「ここは自分の場所だ」と言い張ってイエス様が入って来られるのを拒否している。そのようなイエス様を拒否する罪が、神の子を十字架につけたのです。
何故人々がイエス様を拒否し、十字架につけるということが起きたのか。イエス様が来られたからです。神がこの世を愛されたからです。
人間の罪は、イエス・キリストの十字架によって具体的に現れ、神の愛とそのことばを拒否したことによって、その正体を現すのです。
神から見れば、ご自身の恵みを拒否する人の不信仰は、不思議でならないのです。
それでもイエス様は、12弟子たちを二人一組で宣教のために遣わされました。イエス様は、旅のために杖と履き物以外は持って行くことは許されませんでした。
イエス様は、弟子たちが与えられた神の権威にのみ頼ることを要求されたのです。イエス様のメッセージは「神にのみ頼れ」です。
この世の常識だけを見つめる者には、神の福音の恵みを見ることは許されません。
ナザレの人々は、世の常識を通してでしか、イエス様を見ることができなかったので、イエス様の本当の姿を見誤った。この世を見つめる目は、神を見る目を盲目にするのです。
私たちクリスチャンは、イエス・キリストを見続ける者です。
人がイエス・キリストを信仰の目で見つめ直した時、そこに新たなものが見えてきます。あなたの罪深さと神の愛の奥深さです。
そして自分の罪の重大さと神の愛の大きさを教えられた時、人はイエス様にすべてを委ねて生きる者と変えられるのです。