
2025年06月15日(日)
=真理を知って平安に過ごすために=
<福音書>ヨハネの福音書16章7, 12~15節
イエス様は弟子たちに『話すことはたくさんありますが、あなたがたはそれに耐えられません』と言われました。耐えられないこととはイエス様の十字架の死です。
弟子たちはイエス様の十字架の意味と復活を知らなかったのです。その時の弟子たちの心には、世的な英雄イエス・キリストが出来上がっていました。
弟子たちには、英雄イエス様が十字架につけられて殺されるとはまったく考えられなかったのです。弟子たちの心の中では、イエス・キリストはダビデ/ソロモンの時代の栄華を取り戻すヒーローだったのです。
そのためイエス様が十字架につけられ、誰の目にも惨めな死に方をされた時、弟子たちの心には「こんなはずではなかった」との思いしか残らなかったのです。
でもそのような弟子たちであっても、その後ペンテコステの日に聖霊を受けることによって、より深く神の御計画を理解する者と変えられたのです。
私たちも、この世にどっぷりと浸かって生きていますと“神の真理”が分からなくなります。この世の世界は、神に背くことにおいて“世”であるからです。
主は、私たちにも放蕩息子のたとえ話の弟息子のように、父のもとへ帰るように勧めておられます。神が心の戸を叩く音を聞きながら、扉を開かないのは神に背を向けることです。(黙示録3章20節)
そのために私たちは、イエス・キリストに聞き続けなければならず、イエス・キリストを見続けなければなりません。
それでイエス様は、そのような神の声を私たちの心の内に響かせ、神の愛を心に満たしてくださるのが“真理の御霊”(聖霊)だと言われる。そして聖霊を人の心に遣わされるのはイエス様です。
人は、神によらなければ神を知ることができません。聖霊は弟子たちに“神の愛と神の御計画”を教えるのです。
そこで私たちに求められるのは、主に対する信仰であり、神の栄光を現したいとの熱い思いです。
このとき、イエス様のことばを聞いているのは弟子たちです。弟子たちが、どの程度イエス様のことばを理解したか分かりません。ほとんど解らなかったでしょう。まだ聖霊が与えられていなかったからです。
この世で絶対的に正しいものは、神以外にありません。ですから聖霊は、イエス様の教えを弟子たちに伝え、それが神のことばであることを悟らせる働きをされるのです。
聖書にはイエス様のみことばやわざが記されていますが、私たちは聖霊の働きによって、それらが神のことばであり真理であると気づかされるのです。
ですから聖霊は、イエス様のことばやわざによって人の魂に働きかけ、その者が神の栄光を現すことを助けるのです。
私たちクリスチャンは、聖霊の助けによって「主は、私にすばらしい愛を示してくださった」と言って、イエス・キリストの栄光を現します。
そのように私たちがイエス様の栄光を現すことは、父なる神の愛と救いの御わざの完全な表れでもあるのです。
そして、そのように導かれた私たちは、聖霊の働きによって、神が私とともにおられ、私を真理のうちに守ってくださっている事実を教えられるのです。
神がともにおられると知っていることほど、人の心を平安にするものはありません。そのように、聖霊によって心が平安にされた者は、決して「こんなはずではなかった」と後悔することはありません。