
=あなたが、主の十字架から希望を頂くために=
<福音書>ルカの福音書23章33~43節
『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです』(34節)。イエス・キリストの十字架は、サタンの勝利のように思われました。
しかしイエス様は十字架によってサタンに致命的な打撃を与えられました。すべての人に、罪による滅びからの救いの道が示されたからです。
信仰は、神と人との個人的な契約です。それで、あなたがイエス様の十字架のことばを個人的なことばとして聞くとき、あなたは十字架の愛をあなた自身のものとするのです。
神を信じるとは、どんな状況にあっても、神があらゆる状況を用いてご計画を成就されることを確信し、平安の内に神に従うことです。
その意味で、キリストの十字架を信じるとは、一見 敗北にしか見えないイエスの死も、神のご計画の成就であると知ることです。
そこで対照的なのが、イエス様と一緒に十字架に付けられた二人の犯罪人です。犯罪人の一人は言います。「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と。
この犯罪人は、自分が十字架にはりつけにされている現実を受け入れられず、不満を持ち、文句を言いながら死んで行ったに違いない。
その犯罪人のことばに、もう一人の犯罪人が反発しました。「おまえは神をも恐れないのか」。
この男は、イエス様の赦しのことばを聞いて自分の罪を認め、現実を受け入れました。自分の罪を悔い改める者が、イエスは誰かを教えられるのです。
この男にとって、イエス様とともに十字架に付けられたことは感謝すべき事でした。 人生の最後で、“十字架の絶望”が“十字架の希望”と変えられたからです。
この男は、十字架の上で人生が変えられ、永遠のいのちの希望を持って死んで行ったのです。
信仰を持つことは、その者の根本的なところで変化が起こることです。
キリストの十字架をしっかりと見つめる者は“死の意味”も“生きる意味”も変えられます。それは、私たちが主にすべてを委ねることです。
その時、主はあなたに暗やみの向こうに希望の光を見せてくださいます。
十字架の絶望の中に希望を見い出す者がクリスチャンです。
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