2025年05月11日(日)

=あなたが自由な信仰生活に生かされるために=

<福音書>ヨハネの福音書10章22~30節

ユダヤ人たちがイエス様を取り囲み「あなたがキリストなら、はっきりと言ってください」と責め立てました。でもイエス様は「わたしははっきりと、『わたしがキリストです』と言っているのに、あなたがたが信じないだけだ」と言われます。

イエス様は羊を例に挙げて言っておられます。『わたしは門です』(9節)、『わたしは良い牧者です』(11節)と。イザヤ書40章11節に『主は羊飼いのように、その群れを飼い、‥』とあります。それはメシアについて預言です。

ユダヤ人たちは、その預言のことばを知っています。でもユダヤ人たちは、イエス様のことばの意味が分からなかった。 羊は耳の良い動物です。それはいろいろ聞こえて来る声の中で、どの声が自分の羊飼いの声なのかを聞き分ける耳の良さです。

ユダヤ人たちの耳には「律法、律法」と叫ぶ声が余りにも印象的であり「あなたの罪は赦された。わたしに従いなさい」とのイエス様の福音の声を聞き分けられなかったのです。

またイエス様は、『わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証しています』と言われます。そのわざとは、イエス様が神から遣わされたメシアであることを証明するものです。

イエス様は、目の見えない者に光を与え、耳の聞こえない者に音を聞かせ、38年間歩けなかった者の足を強くされ、話すことのできなかった者にことばを与えられました。

それらの奇跡についても、イザヤ書に『そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う』(イザヤ35章5,6節)と預言されています。

ユダヤ人たちは、イザヤの預言を知っておきながら、イエス様が行われた奇跡を、メシアの証として受け取れなかったのです。

彼らの律法主義的な態度や選民意識が、彼らの目や耳を塞ぎ、心を頑なにしたのです。イエス様は、そのようなユダヤ人について「彼らは、わたしの羊の群れに属していない」と言われます。

彼らは、律法主義的な枠組みや選民意識に縛られていたため、イエス様が示された神の愛や恵みのメッセージを理解できなかったのです。

ユダヤ人たちは、古い律法主義の概念に縛られて罪の奴隷となり、<キリスト者の自由>に生きることができなかった。

宗教改革者ルターは、神との直接的な関係によって自由な者とされ、その与えられた神との自由をベースとして、他のすべての人に仕えるのが<キリスト者の自由>だと言っています

ユダヤ人たちは、律法にしがみついたために神の恵みを拒否し、他者を愛することができず、イエス・キリストにあって信仰生活を自由に生きることができなかったのです。それは、心の頑なな者の悲劇です。

イエス様は、私たちにも言われます。「わたしは話しました。わたしが父の名によって行ったわざが、わたしについて証明しています」と。

確かに私たちは、「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます」、また「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」と言われたイエス様の声を聞き分けてイエス様に従う決心をしました。

ですから私たちには永遠のいのちが与えられています。 でも私たちがキリスト者とされた喜びは、天の御国が約束されていることだけでしょうか。

29節でイエス様は言われます。『わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です』。イエス様は、私たちをすべてにまさって大切だと言ってくださる。

それは私たちが神の愛を最大限に受けることであり、信仰者である私たちが、内なる人として神との密接な関係を保ち、外なる人として他者に仕える者となることなのです。

イエス・キリストの愛は、自己犠牲の愛です。私たちが神にまったく捕らえられ、神との密接な関係を築くことによって、私たちはこの地上にあってもイエス・キリストの愛に生きる者とされるのです。

そのような者として生かされることが、真の<キリスト者の自由>なのです。<キリスト者の自由>を獲得した者は、神とともに過ごす喜びを奪われることはありません。