2025年05月18日(日)

=あなたが神の想いに応えるために=

<使徒書>使徒の働き11章1~18節

ペテロは、異邦人コルネリウスの所に出向いてエルサレムに戻って来ました。その事でペテロは非難されているのです。

弟子たちは「律法を守るべき」との考えから解放されておらず、異邦人との交わりにも慎重な姿勢をとっていたのです。

ペテロが夢心地になっていると、天から大きな敷布が降りて来ました。その敷布の中には律法で食べることが禁じられている動物が入っていました。

そして天からの声は言います。『ペテロよ、さあ、屠って食べなさい』。神は、ペテロが律法や古い習慣に縛られず、神の新しい導きに従うように求められたのです。

ペテロは反論します。「私は、汚れたものを食べたことはありません」と。そのものが、きよいか、きよくないかを決めるのは神です。

ちょうどその時、コルネリウスからの三人の遣いの者がペテロを招くためにやって来ました。 それでペテロは、御霊に示されてコルネリウスの家まで行ったのです。

人が神の導きに従って一歩踏み出せば、主は次の道も示してくださいます。そこには、必ず主の恵みが備えられています。

さてペテロはコルネリウスの家に着きました。ペテロはコルネリウスの家で、イエス・キリストの十字架と復活について話しました。

イエス・キリストの十字架と復活の事実は、人の魂を罪の滅びから救う力があるのです。その時、その家の者に聖霊が降りました。

もしペテロに何の霊的な掲示もなく、突然コルネリウスの遣いが来ても、ペテロは一緒についていかなかったでしょう。弟子たちは「イエス・キリストの福音は、ユダヤ人だけのもの」と思い込んでいたからです。

弟子たちは、依然としてユダヤ人社会の中に留まっていたのです。弟子たちの思いは、律法主義から抜け出すことができなかったのです。

私たちは律法主義を批判します。古い律法は脱ぎ捨てて、新しい教えであるイエス・キリストの福音の恵みを着るべきだと主張します。

しかし私たちも、古い生活習慣から抜け出せない事実を見出さないでしょうか。特にこの但馬地方では社寺仏閣に係わる行事が多く、生活の中に深く入り込んでいます。

クリスチャンであっても、それらの因習から完全に離れることは難しいことです。

私は、信仰者が難しい判断を迫られるときに、悩むことは悪いことだとは思いません。

その時、私たちが信仰者として正しい判断ができるために大切なことは、神の導きに敏感になり、聖書のみことばに触れて信仰生活を過ごすことです。

私たちは、今日のテキストから三つのことを教えられます。一つは、私たちが誰かを自分で“きよい”とか“汚れている”とかを決めつけてはいけないことです。

「この人は、高慢で偶像礼拝者なので救われる資格はない」と決めつけてはならないのです。 イエス様は、その人の罪を赦すためにも十字架で血を流してくださったのです。

私たちも以前は神の前に汚れた者だったのです。私たちは、神の前にもっと謙虚になることが求められています。

二つ目は、人をきよくするのは神の働きだということです。コルネリウスの家で ペテロがしたことは、イエス・キリストを紹介したことだけです。同じように、私たちも人にイエス・キリストを紹介することが求められています。

三つ目は、すべてを神に委ねることです。ペテロは、神にすべてを委ねてコルネリウスの家に行ったのです。

イエス・キリストを信じるとは、旧い自分に死んで新しく生まれ変わることです。しかしこの世にある限りは、罪が私たちを古い世界の価値観に引き戻し、イエス・キリストの福音の恵みから私たちを引き離そうとします。

人は自分の思いを優先しがちです。でも神の想いを優先するのがクリスチャンです。そして神の想いは、イエス・キリストを生活の中心として生きる者に示されます。

キリスト者の生活は、神の想いを教えられ続ける生活です。そしてそのような者が、イエス・キリストに似る者とされ、主の栄光を現す者と変えられるのです。