2025年12月07日(日)

=あなたがより正しく神に従うために=

【要約】<福音書>マタイの福音書3112

バプテスマのヨハネは『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから』と訴えました。罪を悔い改めない者が、天の御国に入れられることはありません。

救い主は間もなく世にご自分を現わそうとされている。救い主が歩まれる道は、一人ひとりの心の中の道です。心の道は、神に向かってまっすぐでなければなりません

しかし殆どの人の心の道は別の方向に向き、曲がり荒れていたのです。それは罪に侵され、私利私欲をむさぼり、偶像礼拝に走る者の姿です。

なぜ人々は悔い改めなければならなかったのか。 一つは、間違った救い主を待ち望んでいたからです。人々の心には、かつてのイスラエル王国の政治的な繁栄を取り戻してくれる救い主メシアへの期待があったのです。

では、私たちも世的な欲望を満たしてくれる救い主を求めていないでしょうか。私たちは信仰を持って祈れば、必ず世の苦しみから逃れられると考えるのは間違いです。物事を決める決定権は神が持っておられます。

二つ目の理由は、罪を認めないからです。人々は、律法を守ることに一所懸命でした。ヨハネはそのような人々に、主により頼むことで救われるように教えました。

「自分は正しい」との思いを持っている者は、神により頼むことはできません。そこに罪の悔い改めは生じません。信仰は、自分の無力さを認めて神により頼むことです。

では私たちは、どれほど自分の罪を認める者でしょうか。 イエス様は、悪に対しては厳しい方ですが、人々に対しては謙虚な姿勢を貫かれ、最後は十字架にまで従われたのです。

私たちは、イエス様の謙虚さに倣うべきです。私たちがそのような姿勢で他の人と交わるときに、そこに主にある平和が築き上げられるのです。

さてヨハネのところに、パリサイ人やサドカイ人たちもバプテスマを受けるためにやって来ました。ヨハネのバプテスマは“罪の悔い改めのバプテスマ”です。

彼らは「自分は罪人だ」とは全く思っていません。自分の罪を解らない者が、罪を悔い改めることはできません。表向きの悔い改めは、おごり/高ぶりと同じです。

そのようなパリサイ人たちに向かってヨハネは言います。「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」。

このことばでヨハネは、「まことの悔い改めと実を結ぶ信仰こそが、神に受け入れられる条件だ」と強調しています。信仰の実は良い行いの結果です。

ではバプテスマのヨハネは、私たちに“良い行い”を求めているのでしょうか。ヨハネは私たちに訴えます。「あなたは、実を結ぶ真の信仰に生きているか」と。

では私たちは一所懸命がんばって、イエス・キリストを周りに人に伝え、その人々を一人でも多く教会に連れて来なくてはならないのでしょうか。またできる限りの奉仕をして、少しでも多くの献金をささげなければならないのでしょうか。

私たちは、自分の努力で精一杯のことをしようとしてもできません。人は生まれながらの罪人であり、そのままでは神のために何の良いこともできないからです。

それでヨハネは言います。『私の後に来られる方は私よりも力のある方です。そのかたは聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます』。

“聖霊”は信じる者に神の力を与え、福音を語る力を与えます。また聖霊は人の心を神に向けさせ、悔い改めへと導き、その者を主にある者と作り変えます。

“火”は裁きの象徴です。神のために実を結ばない者は焼き捨てられます。また火は精錬の象徴でもあります。火は信仰者を清め神にふさわしい器へとつくり変えます。

ヨハネはあなたに語っています。「イエス・キリストを信じるとは、聖霊によって力を受け、火によって罪を焼き尽くされ、神の前に聖なる者とされる歩みに入ることである」と。

ヨハネは『(主は)ご自分の脱穀場を隅々まで掃き清められます』と言います。主の脱穀場は全世界です。イエス様は、過去から未来に至るまでのすべての人のたましいを、手に箕をもって量られるのです。

どうすれば私たちは実を結ぶことができるでしょうか。だからヨハネは叫びます。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と。

主はあなたの悔い改めを求めておられます。悔い改めとは、ただ罪を犯したことを悔いるだけでなく、罪赦され天の御国にふさわしい者とされた事を感謝して、心から主に従うことです。

クリスチャン生活は、悔い改めの連続です。そして神は、悔い改める者を祝福し、天の御国へと導かれるのです。