
=主のご降誕を謙虚に待ち望むために=
<福音書>マタイの福音書3章1~12節
聖書は言っています。「人が救われるためには、バプテスマのヨハネとイエス・キリストがセットでなければならない」と。ヨハネは“罪の悔い改め”を叫び、キリストは“罪の赦し”を実践しました。
ヨハネの使命は荒野で叫ぶことだけです。ヨハネは“荒野”で叫ばなければならなかった。荒野は、潤いがなく荒れ果てた不毛の地です。
荒野は、人々の心を象徴しています。世の人の心は、荒れ果てた罪の世界です。
預言者イザヤは言います『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』。人の心の中に用意される主の道とは、あなたの信仰の道です。
人は世の誘惑に心が奪われると、信仰の道が曲がっていることに気がつかない。人が罪を悔い改めるとは、信仰の道をまっすぐにすることです。
バプテスマのヨハネは叫びます。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と。
そこで多くの人々が、ヨハネのところに来て、罪を告白しバプテスマを受けました。罪とは、的であるべき神のことばから外れていることです。
また罪を告白するとは、的外れな状態を直すことであり、それが「主の通られる道をまっすぐにすること」です。
一方パリサイ人たちは、自分たちは神の選びの民であり悔い改める必要はないと思っていた。彼らはまったくの“的外れな者”です。
ユダヤ民族の特権は、神を知ることにおける特権であり、救いにおける特権ではありません。天の御国に入る特権が与えられる者は、イエス・キリストに頼る以外に救いの道がないことを教えられた者です。
バプテスマのヨハネは言います「神の脱穀場はこの地上だ」と。神は、実のある者を天の御国へ導き、実のない者を永遠の火の中に投げ込まれます。そして、その実の有り無しの分かれ目となるのが、罪の悔い改めです。
それで聖書は言います。「バプテスマのヨハネは、あなただ」と。あなたの周りの人々にとって、あなたは救い主の到来を告げる最後の預言者(バプテスマのヨハネ)です。
そのために、私たち自身もイエス・キリストから目をそらさず、謙虚な者とさせていただきましょう。それが<主の到来を告げる者>の生き方です。
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