
=平安の内に信仰生活を過ごすために=
<福音書>マタイの福音書11章2~11節
獄中にいるバプテスマのヨハネは、救い主が見えなくなり不安になって、弟子たちをイエス様の処へ送り質問させました。「おいでになるはずの方は、あなたですか」と。
その質問にイエス様は「見聞きしている“わたしのわざ”をヨハネに伝えなさい」と言われただけです。「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き‥」と旧約聖書に記されています。
イエス様は「今そのことが起きている。わたしこそがキリストだ」と答えられたのです。
また「わたしにつまずかない者は幸いです」(6節)と言われました。この“つまずく”とのことばは“腹を立てる”との意味もあります。
パリサイ人たちは、イエス様が現れた時「安息日をも守らない者がキリストであるはずがない」と腹を立て、イエス・キリストを十字架に付けたのです。
実に、十字架はイエス様を拒否し腹を立てた者のつまずきのしるしです。
人はイエス様から目を離したときに、腹を立てる者となり自分の都合を優先するようになります。もしこの世で腹を立てる権利があるなら、その権利を持っているのはイエス様だけです。
しかし、すべての人に腹を立てる権利を持っておられるイエス・キリストが、すべての人の腹立たしさ(罪)を背負って十字架で死んでくださったのです。それ故、人はイエス・キリストから目を離してはならないのです。
さて人々は、喜んで荒野のヨハネの処に出かけていました。その人々にイエス様は言われます。「あなたがたは預言者よりもすぐれた者を見に行ったのです」と。
またイエス様は言われます。「天の御国の一番小さな者でも、彼より偉大です」と。この“天の御国”とはイエス様の到来によってもたらされた<地上における神の支配>です。
イエス様は「旧約の約束のもとで働く者よりも、その約束の成就である天の御国の働き人の方がより偉大である」と言われたのです。
世の人は、地上のことに目を奪われますが、私たちが心の目を向けるべきは、この地上に神の国の支配をもたらされたイエス・キリストただお一人です。
そのようにイエス様に目を向け続ける者に、主は「わたしにつまずかない者は幸いです」と言ってくださり、来るべき世で死のない至福の喜びが約束されるのです。
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