2025年12月14日(日)

=あなたが主に正しく仕えるために=

【要約】<福音書>マタイの福音書11211

バプテスマのヨハネは、牢獄で悩んでいました。そのときのヨハネの想いはこのようなものだったでしょう。「私は、イエス様がキリストだと思っている。でもイスラエルの解放はどうなったのか」と。

ヨハネは、旧約聖書のメシア預言のみことばをよく知っています。またヨハネは自分が『荒野で叫ぶ者の声』(イザヤ40:3)であることも知っていました。そうですヨハネは、よく知っているから悩んだのです。

旧約聖書の預言は、救い主メシアの二つの側面を語っています。<癒しと福音>という柔らかい側面と、<裁きと完全な解放>との厳しい側面です。

厳しい側面を見れば、聖書には救い主メシアは「捕らわれ人を解放して、囚人を釈放してくださる者」です。でもイスラエルは、依然としてローマの属国ありヨハネ自身も牢獄の中にいる。

それでヨハネは、弟子たちをイエス様のところに派遣したのです。ヨハネの信仰は試されています。ヨハネの心は、メシア像について“霊的な救い主”と“政治的解放者”との間で揺れていたのです。

それでイエス様は、ヨハネの弟子たちにイザヤ書35章のみことばを引用して語られました。「目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、‥貧しい者たちに福音が伝えられています。わたしにつまずかない者は幸いです」と。

ヨハネは、メシア像の時間的な展開(今成就することと、後に成就すること)を理解しきれなかったのです。そこにヨハネの苦悩の原因があったのです。

私たちは、イエス様の地上における救いのわざは、十字架の上で完成されたことを知っています。

しかしイエス・キリストの働きは、その後、弟子たちによって今に至るまで引き継がれて、聞く者一人ひとりの心に福音を届けているのです。ですから救い主なるイエス様の働きは、私たちの上にも確実に成されています。

その一方で、世の誘惑も私たちの上にも降りかかり、私たちをイエス・キリストから引き離そうとします。しかし、みことばに戻れば、その者がイエス・キリストにつまずくことはありません。そのような者をイエス様は「幸いな者だ」と言われます。

人々は、ヨハネは預言者だと認めています。しかし私たちがヨハネの偉大さを教えられても、それは私たちに何の益ももたらしません。

イエス様が私たちに教えようとされたことは、11節の最後『天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です』。この事実です。

ヨハネの心は<自分の状況>と<社会的な解放者としてのメシア預言の期待>との間で揺れていました。そのヨハネにイエス様はイザヤ書の預言の成就を示して「わたしこそメシアである」と宣言されたのです。

ヨハネの偉大さは、旧い契約に属する者としての偉大さです。そのヨハネが、旧約の時代に属しながら同時に「新約の扉を開く者」としてイエス・キリストを指し示しました。

そのヨハネの偉大さを、イエス様は『女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした』と語られました。

そのことを語った上で、イエス様は私たちに『天の御国で一番小さい者でさえ、ヨハネより偉大です』と言われる。

バプテスマのヨハネは、旧約の枠組みに属し、キリストの十字架と復活を見ることなく、また聖霊を受けることなく、すなわち御国の完成を見ずに殉教しました。

そしてヨハネの殉教の死の後に、イエス・キリストの十字架の死と復活によって新しい秩序が始まったのです。

“天の御国で一番小さい者”とは天の御国に入れられた者です。私たちのことです。私たちは、キリストの十字架と復活を通して神の子とされ、聖霊を受けるという新しい秩序(新しい契約)のうちに神の救いにあずかった者です。

私たちは地上にあっても、天の御国に入れられた者として生かされているのです。その私たちを、イエス様は「バプテスマのヨハネよりも偉大だ」と言ってくださる。

ですから<偉大さ>の基準は、私たちが考えるような“人間的な功績や徳”ではなく、<神の救いにあずかること>そのものが偉大さの基準です。

つまり「偉大」とは、「神の国に入れられた恵みの大きさ」です。

天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です』。このことばは、私たち信仰者が受けている恵みの大きさ、聖霊なる神が私たちのうちに住んでいてくださることのすばらしさ、私たちが地上にあっても「神とともに歩むことのできる幸い」を語っております。

このことばでイエス様は「神とともに生きる信仰生活を喜びなさい」と言われます。私たちクリスチャンは、地上にあってもすでに天の御国を味わっている者です。

私たちは「主が、私の心の内にも入って来てくださった恵みの偉大さ」を感謝すべきです。

信仰生活において、主が私とともにおられる幸いを感じつつ、日々感謝をもって過ごすのが<主にあって偉大な者>の生き方です。