2026年03月15日(日)
=あなたが主の約束に期待する者とされるために=
【要約】<旧約聖書>創世記21章1~13節 & 16章1~4節
アブラハムは、主から約束されました。『あなたの子孫にこの地を与える』。(創世記12章7節) しかし、いっこうに子どもは与えられません。
なぜ主は、アブラハムに“子どもを与える”との約束の成就を遅らされたのか。四つの理由が考えられます。
第一は、アブラハムの信仰を練って彼を成熟させるためにです。彼はいろんな失敗をしました。それらの失敗を通して、彼の信仰は練られて成熟していったのです。
神はアブラハムの信仰を鍛えて、彼の心を“すぐに願いをかなえてくださる神”ではなく“約束に忠実な神”へと向けさせたのです。
第二の理由は、その事が神の力による成就であることを明らかにするためにです。アブラハム100歳、サラは90歳の時にイサクが与えられました。
その事実によって「神がご介入されなければ、このことは起きない」と明らかにされたのです。神の力によるのでなければ、サラがイサクを産むこともなかったのです。
第三の理由は、人間の性急さと神の御心の時の違いを示すためにです。人は早く結果を見たいと焦りますが、神の御心の時は別にあるのです。
第四の理由は、神の約束が遅れているのではなく、“備えられたときに成就する”ことを教えるためにです。神は人よりも、その事が成就する最適な時をご存じです。
伝道者の書に『神のなさることは、すべて時にかなって美しい』(伝道者の書3章11節)とありますが、まさにその通りです。私たちは、主のタイミングを待つ忍耐も教えられねばなりません。
また「サラを顧みられた」と書かれている表現は、主の深い憐れみと主権的な介入を現わしています。<顧みる>ということばは「神が憐れみをもって、積極的に介入して状況を変える」という意味です。
主は、サラの失敗を責めることなく、サラを弱さゆえに退けることもなく、サラの不信仰ゆえに約束を取り消すことなく、「サラのために、ご自身の恵みと主権によって約束を成就された」のです。
そして私たちにとっても「神は、私たちの失敗を、憐れみをもって補ってくださる方」なのです。しかしここでは、それ以上のことが語られています。
それは「神の約束は、人間の側の失敗によって妨げられることはない」ということです。人は、
・失敗を繰り返します。でも主は、失敗ゆえに約束を取り消されません。 ・誘惑に弱い者です。でも主は、弱さゆえに見捨てられません。
ですから、主が成し遂げようとされることは、私たちの側の状況(失敗、弱さ、年齢)によることなく、主は成し遂げられるのです。「神の恵みは、人間の弱さよりも強く大きい」からです。
それが、「主が私たちを顧みられる」ということです。主は決してあなたを見放されません。神の方法で、必ず約束を成就されるのです。
では主が私たちに何を求められるのでしょうか。<主により頼む信仰>です。
確かに主は、私たちの弱さや失敗を補ってくださいます。確かにサラには、弱さと失敗が満ちています。それでも「主は‥サラを顧みられた」。
それは、「神の約束は、人間の弱さによって取り消されることなく、神の恵みは、人間の失敗よりも大きい」からです。これは<福音の中心>です。
アブラハムとサラは、・神の語りかけに耳を傾け、・神の導きに応答し、・神の約束にしがみつき、・時に失敗しながらも、再び神に立ち返り、・神のことばに従う歩みを続けてきたのです。
「信仰とは、神により頼みつつ、神のことばに応答し続ける生き方」です。ですから主が彼らを顧みられたのは、彼らが完璧だったからではなく、神により頼む姿勢を捨てなかったからです。
その事をダビデは、詩篇でこのように詩っています。『私はいつも、私の前に主を置いた』。 それで主は、私たちにも語られます。「あなたの前にわたしを置いているか」と。
自分の前に主を置く信仰。それはどんな状況にあっても「みことばに聞き、主に応答し続ける信仰」です。アブラハムは、基本的にそのような生き方を貫いてきたのです。
私たちも、弱さを抱えた欠陥だらけの者です。そのような私たちであっても、私たちが<神の約束を待つ者>、
すなわち「みことばに聞き、主に応答し続ける者」である限り、主は私たちを顧みてくださり、ご自分の計画を実現するために、私たちを福音宣教の使者として用いてくださるのです。
そのような者に対する主の恵みは限りなく大きいのです。