2026年03月29日(日)

 =あなたがイエス様に信頼して歩むために=

【要約】<福音書>マタイ271154

「あなたはユダヤ人の王なのか」とのピラトの問いかけにイエス様は「あなたがそう言っています」と答えられました。イエス様は、その答えで「わたしは天から来た真理の王であり、神の国の王である」と主張されたのです。

そしてその後イエス様は、何もお答えになりませんでした。イエス様は必要以外のところでは沈黙を守られたのです。

このイエス様の姿勢は「政治的弁明はしない」、「自分を守るために議論はしない」、しかし「真理の証しは決して拒まない」というものです。

そのような態度によって、イエス様はピラトに「あなたは今、天の王を裁いている」という事実を静かに突き付けておられます。それはピラトに対する裁きではなく、ピラトのための真理への招きです。

はいろいろな方法で、ピラトに“悔い改めの道”を示されましたが、ピラトは神の愛に気が付きませんでした。そしてピラトは、イエス様を十字架につけるためにユダヤ人に引き渡したのです。

十字架の前日の夕方、イエス様は12弟子たちと過ぎ越しの食事をされました。 “最後の晩餐”です。その時イスカリオテ・ユダは、主を裏切るためにその場を離れました。この時イエス様は、12弟子の一人に見捨てられました。

ゲッセマネの園でイエス様が捕らえられた時、弟子たちはイエスを見捨てて逃げてしまいました。その時イエス様は、最も親しい弟子たちにも見捨てられました。

その後、大祭司の所で裁判を受けられました。そこでイエス様は、ユダヤ人たちから、顔に唾をかけられ、殴られ、頬を叩かれ、嘲られたのです。この時イエス様は、同胞のユダヤ人たちからも見捨てられました。

そしてピラトは、イエス様を十字架につけるためにユダヤ人たちに引き渡しました。その時ローマ兵たちは、イエス様をむち打ち、いばらの冠をかぶらせ、葦の棒で叩いてからかいました。

この時イエス様は、異邦人にも見捨てられたのです。イエス様は、すべての人間に見捨てられた後、十字架につけられました。

それでイエス様は、十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた。

子なる神イエス様が、父なる神から見捨てられる。それは「愛が断たれた」とか「三位一体が壊れた」という意味ではありません。「罪の裁きの現実が、イエス様に全面的に下った」との意味です。

パウロは言います。『キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました』。(ガラテヤ3章13節)

このことばは、本来罪人が受けるべき<神に見捨てられる>ことを、イエス様が身代わりに受けてくださった事実を語っています。そうです、神に見捨てられるべきは私たちだったのです。

何故イエス様が、罪人である私たちに代わって、神に見捨てられたのか。「あなたが見捨てられないため」にです。

罪とは、神との断絶です。罪の本質は「神から離れること」であり、罪人の究極の姿が「神に見捨てられる」ことです。ですから「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ぶべきは罪人である私たちです。

しかし実際に十字架の上で、その叫び声をあげたのは、罪のない神の子イエス様だったのです。これは、神の子が罪人の立場に完全に立ってくださったということです。

確かに父なる神はイエス様を“見捨て”ました。しかしそれは、関係を断たれたのではありません。私たち罪人を救うために、子なる神を「見捨てる場所に置かれた」のです。

そのことは、父なる神と子なる神であるイエス様が、ともに痛みを負う“愛の決断”です。ですから十字架は、父なる神と子なる神がもっとも深く裂かれた場所であり、同時に神の愛が人類に最も深く注がれた場所なのです。

イエス・キリストは、①イスカリオテ・ユダに見捨てられました。それは神を裏切った者を救うためにです。②弟子たちに見捨てられました。それは弱さの中にある者を救うためにです。

③ユダヤ人たちに見捨てられました。それは、宗教上の罪人を救うためにです。④異邦人たちに見捨てられました。それは、世界の罪を背負うためにです。

⑤そしてイエス・キリストは、父なる神に見捨てられました。すべての罪人が受けるべき裁きを身代わりに受けるためにです。

イエス様は、すべての人に見捨てられたからこそ、すべての人を救うことができるのです。

イエス様は十字架の上から、あなたに語っておられます。「あなたは、わたしを見捨てることはないか」と。

イエス様は、すべての人に見捨てられ、すべての弱さをご存じなので、すべての人の弱さのうちにご自分の<愛の力>を現すことがおできになるのです。

私たちは罪だらけの弱い者たちですが、すべての者に<見捨てられた神=イエス・キリスト=>に信頼して歩むときに、主は私を、ご自身の栄光を現す者としてくださいます。