
2024年3月24日(日)
=あなたが主に用いられる者となるために=
<福音書>マルコ11章1~11節
イエス様は“誰も乗ったことのないろばの子”を連れてこさせました。「誰も乗ったことのない」とは、聖いことのために用いることを暗示しています。
神は完全なお方です。妥協は許されません。さてイエス様は、聖いろばの子に乗られ、弟子たちは自分の服をろばの背にかけ、人々も上着を脱ぎ、葉の付いた木の枝を道に敷き詰めました。
その状況でエルサレムに入って行かれたのです。人々は「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と言って叫び続けました。まさしくイエス様は、王としてエルサレムに入場されたのです。
しかし人々は救い主を“世的な王”と考えて、イエス様をローマの圧政から解放する救い主として迎えたのです。人々は霊的な目でイエス・キリストを見ることができませんでした。
また何故イエス様は、ろばの子に乗られたのでしょうか。王としてエルサレムに入るのであれば、ろばの子よりも馬に乗った方がふさわしい。
イエス様は、馬に乗ってエルサレムに入られた方が、王として余程立派に見えます。ただ、イエス様は霊的な世界の王です。私たちは、霊的なことと世的なことを混同してはなりません。
霊的な世界の王は、謙虚な者でなければなりません。そのためには、馬よりもろばの子の方がふさわしのです。私たちも、ろばのように黙々と主に用いられる器でなければなりません。
その後人々は、イエス様に幻滅しました。イエス様が自分たちの思っていた王ではなかったからです。それで「十字架につけろ」と叫び出した。
そのような者のために、十字架へと歩かねばならない。そこにイエス様の本当の辛さがあったのです。そのイエス様は、今も苦しんでおられます。教会のかしらとして苦しんでおられる。
教会の中にいろいろな問題があるので、イエス様は苦しんでおられる。その意味で、最後の一週間のイエス様の苦しみは、今も続いています。
私たちは「ホサナ、ホサナ」と言って、自分の心にまた教会にイエス様を迎え入れました。 教会には、いろいろな背景を持った方々がおられます。ある意味、教会の中に様々な課題が生じてくるのは当然のように思われます。
教会の一番大きな問題は、その一つ一つの課題を主によって解決できないことです。皆さんは「主がお入り用なのです」と呼ばれて、今ここにおられます。
そしてイエス様は、私たちに「ろばの子になれ」と言われる。私たちがろばの子になる。それは、目立たない働きかも知れませんが、与えられた働きを、謙虚に黙々と果たすことです。
そのような者を、主はご自身の栄光を現わす者として用いてくださいます。
イエス様の苦しみは、2000年前の十字架で終わったのではなく今も続いています。私たちは、常に神の声を聞き続けなければなりません。
「主がお入り用なのです」。この声を、謙虚に聞き続ける時に、私たちは主の恵みにあずかる者と変えられていくのです。