2025年03月16日(日)

=あなたが主の前にまっすぐに歩むために=

<福音書>ルカ9章37~43a節

イエス様が山から下りて来られたとき、群衆の一つの声がイエス様の耳に留まりました。一人息子が悪霊に取りつかれている父親の声です。なぜこの父親の声が特別だったのか三つ考えられます。

一つは、この声が最も深刻な訴えだったからです。父親はやっとの思いで息子をここまで連れて来た。その父親の悲痛な叫び声がイエス様に届いたのです。

二つ目は、父親の「見てやってください」のことばです。このことばは、神に対して用いられることばです。父親は「あなたは神なのだから、私の息子を顧みてください」と言ったのです。その点で、父親の声は特別だったのです。

三つ目は、この父親の叫び声が人々の不信仰を最も明確に表していたからです。父親は、イエス様がいつ山から下りて来られるか分からないので、弟子たちに「悪霊を追い出して欲しい」と頼んだのです。

悪霊を追い出すことは神の力に依らなければなりません。この父親の不信仰は、イエス様を神と言いながら、神にしかできない悪霊との対峙を弟子たちに願ったところにあったのです。

もう一つの不信仰は、弟子たちの不信仰です。以前弟子たちは、イエス様から権威を与えられて悪霊を追い出しました。それでこの息子から悪霊を追い出そうとした。

弟子たちは、神の権威が与えられていないにもかかわらず悪霊を追い出そうとした。そこに弟子たちの不信仰がありました。

そのような不信仰をイエス様は「あゝ、不信仰な曲がった時代だ」と嘆かれたのです。実に不信仰とは曲がっていることです。神に対して根性が曲がることです。

私たちは天の御国へ入れられるまでの間、罪を犯し何度も曲がってしまう。そのような私たちを見てイエス様は「不信仰な曲がった時代だ」と嘆かれます。

このことばでイエス様は、私たちに「まっすぐに生きなさい」と言われている。

イエス様が「まっすぐに生きなさい」と言われるとき、それは「神に向かってまっすぐに生きなさい」との意味です。人は絶対的に正しいものを知ったときに「まっすぐに生きる」ことができるのです。

世の中には、聖書の神を信じると自分を窮屈に曲げなければならないと考える人がいる。それで生活が窮屈になると考える。

そのような人は、神を信じるということは、人として何か余計なものを背負いこむことであるかのように考える。信仰とは重荷であり、自分を曲げることだと思っている。

人は神を信じた時に初めてまっすぐになる神の前に膝を曲げることを知ったときに、人の心は初めてまっすぐにされるのです。それは重荷を背負いこむことではなく、むしろ人生を軽々と生きることです。

主があなたの重荷を負ってくださるから、主があなたに永遠のいのちの希望を与えてくださるからです。

世の中には不信仰があふれています。不信仰とは自分を中心として生きることです。その時々に、自分が一番良いと思える方向に向かって進むのです。

自分というものは、時と場合によって変わります。だから生き方が曲がるのです。変わらない神であるイエス・キリストを信じる者だけが、まっすぐに生きることができるのです。

では、この父親はどうすればよかったのでしょうか。弟子たちはどうすればよかったのでしょうか。 素直に自分の間違いを認めればよかったのです。

父親は、弟子たちにお願いした間違いを認めればよかったのです。弟子たちも自分たちの傲慢の罪を、イエス様に告白すればよかったのです。

私たちは、今日まで何度曲がったことでしょうか。だから主は言われます。41節『いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか』と。

主はいつまでも、あなたとともにいてくださいます。たといあなたの歩みが、主の前に曲がってしまったとしても、主はいつまでもあなたがまっすぐに生き続けるのを待っていてくださいます。

『見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます』。(マタイ28章20節) これがイエス様の約束です。

ですから、あなたの信仰生活が罪によって曲げられても、その都度、イエス様の処に立ち返ればよいのです。「いつもあなたと共にいる」との約束を握りしめて、再びイエス・キリストに向かって歩み出せばそれでよいのです。

それが、あなたが<まっすぐに生きる>ことなのです。