2026年03月08日(日)

=誰かのとりなし手となるために=

【要約】<旧約聖書>創世記1822節~191, 1226

「奇跡は心の目で見なければ見えず、神の声は心の耳で聞かなければ聞こえません。」そのような者に、主は“祈りの恵み”を増し加えられます。 アブラハムはそのような者だったのです。

主はアブラハムに言われます。18章20節『ソドムとゴモラの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、彼らが滅ぼし尽くされるべきかどうかを、見て確かめたい』。

その時、アブラハムの脳裏に浮かんだのは甥のロトのことです。おそらくアブラハムは、ロトが神の前に正しい生活をしているとは思っていなかった。

それでアブラハムは、ソドムの町にいるかもしれない何人かの正しい人たちに期待したのです。ソドムの町に50人の正しい人がいれば、町を滅ぼさないで欲しい。

アブラハムはその願いを何度も何度も繰り返します。ひょっとした45人かもしれない。45人が40人になり、30人になり、そして20人まで下がってきた。それでも心配になって、『もしかすると、そこに見つかるのは10人かもしれません』。

アブラハムは、ロトを罪の滅びから救いたいとの思いで、必死に主にすがり付いたのです。その思いが“とりなしの祈り”のことばとなって主に訴えたのです。その必死さゆえに、は応えられた。『滅ぼしはしない。その10人のゆえに』。

では何故、はアブラハムのもとに来られたのか。「善を助け、悪を滅ぼす」だけなら、直接ソドムの町を見に行けばよかったのです。

ここで主は、“とりなしの祈り”をさせるためにアブラハムのところに立ち寄られた。主は“とりなしの祈り”が、ご自分のところに昇ってくるのを期待しておられます。

結果的にロトは救い出されました。それはアブラハムの“とりなしの祈り”があったからです。

ロト自身には救い出される何の資格もなかった。滅ぼされて当然だった。でもアブラハムのとりなしの祈りのゆえにロトは救い出されました。 私たちはその事実によって、二つの事を教えられます。

一つは「私たちもロトと同じ者であった」ことです。私たちも、この世の価値観『肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢』を追い求め、滅ぼされても仕方のない者だった。

でも誰かのとりなしの祈りのゆえに、神が憐れんで選び出してくださって救われたのです。とりなしの祈りがなければ、あなたは救われなかった。

もう一つは「私たちも誰かのために、とりなしの祈りをしなければならない」ことです。あなたの周りにおられる方のために、とりなしの祈りをささげてください。

とりなしの祈りは“神との協力”であり“神の御心を知る場”でもあります。だから祈る者は、祈る内容について、主とともに重荷を負うのです。

また誰かのためにとりなしの祈りを続けることは、「その人のために時間を使うこと」、「その人の痛みを担うこと」、「その人のために涙を流すこと」、「その人の側に立ち続けること」です。それは信仰のわざです。

しかし私たちは、誰かの救いのために<救いのとりなし手>となれるのでしょうか。

私たちは誰一人として、自分の努力で誰かの“とりなしの祈り”をすることはできません。あなたの信仰生活において主導権を持っているのは常に神なのです

アブラハムの場合も、とりなしの始まりはアブラハムの側ではなく「主の側」からです。主がアブラハムのところに来られ、ご自身との対話へと招き、彼の心をとりなしへと導かれたのです。

つまり、①主の側からアブラハムに近づき、②主がアブラハムに状況を知らせ、③主がアブラハムの心をとりなしへと導いたのです。

それでアブラハムは、「主の御心に導かれて」とりなしの祈りを祈ったのです。それはアブラハムに与えられた“神の恵”です。

では<とりなしの祈り>が、主の側の働きかけにより、恵みとして私たちに与えられるのであれば、そのトリガー(きっかけ)となるものは何か? イエス・キリストです。

イエス様は、父なる神に祈り、人に神の愛を教え、十字架で人の罪を赦された。

イエス・キリストは、公生涯の初めから終わりまで、すべての人の病を癒し、すべての人のたましいに語りかけられました。イエス様の生涯はとりなしの連続でした。

そのようなイエス・キリストに教えられるとき、私たちもまた他の人の救いのためにとりなす者へと変えられるのです。

ですから「私たちが見るべきはイエス・キリストであり、私たちが聞くべきはイエス・キリストの声であり、私たちが歩むべきはイエス・キリストの道です」。

それが自分の弱さを認め、人を愛し、人のためにとりなしの祈りをする信仰者の姿です。そのような者を主は憐れんで、この地上にあっても祝福をもって導いてくださるのです。