
<讃美歌>讃美歌354番「主をほめたたえよ わが心よ」
<聖書日課>ルカ5章33~39節「霊的な断食」
パリサイ人や律法学者はイエス様に「あなたの弟子たちは、断食もせず食べたり飲んだりしている」と非難しました。
それに対してイエス様は、「花婿(イエス・キリスト)が一緒にいるのに、花婿の友達(弟子たち)は断食できない」と言われ、今は断食をする時ではないと言われました。
イエス様は、断食そのものを否定されたのではありません。今も、祈りに専念しするときには、私たちも断食することがあります。ここでは、断食は律法主義の象徴として語られているのです。
私たちは、時代の時を見分けなければなりません。パリサイ人や律法学者たちは、断食に象徴される律法(旧い考え方=旧約)に固執して、新しい考え方(新約)を受け入れられませんでした。
旧い着物に新しい布切れで継ぎをするとは、律法を守って救われようとする旧い考え方に、新しい考え方(福音)を適用するようなものです。それはまったく無駄なことです。
旧い皮袋に新しいぶどう酒を入れることは、律法主義的な考え方にイエス・キリストの福音を包含させようとすることです。
そんなことをすれば、弾力性を失っている旧い皮袋は、新しいぶどう酒の発酵の力に耐えることができず、破裂してしまいます。
律法主義と福音主義は水と油です。それらは決して混じり合うことはありません。
まじめな人ほど「努力」が好きです。自分で努力して道を切り開こうとします。それはそれで良いことです。しかし、天の御国への道を「努力」で切り開こうとしても、1mmも前進しません。
律法にしがみついても、天の御国への道は開かれず、かえって自分の無力さを教えられるだけです。
今、イエス様が世に来られ、新しい福音の時代が始まったのです。
私たちは、依然として旧い律法にしがみつき、自分の努力で新しい境地を切り開こうとする人々をよく見かけます。テレビでも、断食したり、滝に打たれる修行で身をきよめようとしている人々のことを報道しています。
私たちは、自分の力で救われようとする誘惑からまったく解放され、すべてをイエス様に委ねる生活をさせて頂きましょう。
そのような信仰生活をすることは、私たちが「霊的な断食」をすることです。
パリサイ人や律法学者の断食は、自分の努力で食欲を絶つことですが、クリスチャンの霊的断食は、自分の力で救いを勝ち取ろうとする欲を絶ち、イエス様にすべてを委ねることなのです。
人間の力には限界があります。自分の罪を自分で償おうとすることは、人の限界をはるかに超えたことです。時代は、新しい時代に入ったのです。
『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました』。(Ⅱコリント5章21節)
クリスチャンは、イエス・キリストによっていつも新しく造りかえられることを願う者です。
今日よりも明日、明日よりも明後日と、私たちは日々新しくされる信仰生活を過ごさせていただきましょう。
アーメン
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