2025年04月09日(水)

<讃美歌>讃美歌71番「尊き主イエスの」

<聖書日課>ルカ18章31~34節「隠された神のことば」

今イエス様は、大勢の弟子たちとともにエルサレムへ向かっておられます。表向きは過ぎ越しの祭りを守るためにエルサレムへと向かっておられます。

しかしイエス様がエルサレムへ行く本当の理由は、ご自身が十字架について血を流し、すべての人の罪の贖いをするためです。 イエス様はそのことを、あらかじめ12弟子たちに話されました。

「人の子は異邦人に引き渡され、彼らに嘲られ、辱められ、唾をかけられます。 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります」。

イエス様のこのことばは、弟子たちが主の十字架に直面した時の心の動揺を少なくするためであり、その衝撃的な出来事の次に来る復活の希望を与えるためでした。

しかしながら、弟子たちにはイエス様が語られたことが何のことか何一つわからなかったのです。

それは弟子たちが、イエス様をこの世的な救い主としてしか理解できず、イエス様に霊的な罪の救い主の姿を見ることができなかったからです。弟子たちの心は、イエス様と一つになっていなかったのです。

では私たちの心は、イエス様の心と一つになっているでしょうか?

イエス様と同じ心となる。それは、私たちが「イエス様が、私の罪を赦すために苦しんでくださったことを感謝する」ことです。また「私たちが、自身の死後の希望を確かなものとする」ことです。

弟子たちは、この時はイエス様のことばを全く理解できずに隠されていましたが、その後、イエス様の十字架と復活を目の当たりにして、彼らに隠されていたことばが明るみに出て来たのです。

あなたは、聖書のみことばを「ご自分の死後の希望をもたらす希望のことば」として受け止めておられますか。それとも、まだほとんど理解できないことばとして隠されているでしょうか。

聖書のみことばをすべて理解している人は誰もいないでしょう。その意味で、すべての人にとって神のみことばは依然として隠されているのです。

しかし、聖書のみことばが分かればわかるほど、地上の生涯も満ち足りたものと変えられることは確かです。

八鹿教会の皆様方が、ますます満ち足りた地上の生涯を過ごされますように願っています。

アーメン