2025年12月10日(水)

<讃美歌>讃美歌27番「天なる神には」

<聖書日課>マタイの福音書12章33~37節「良い木と悪い木」

イエス様はここで「良い木は良い実を生らせるが、悪い木は悪い実を生らせる」と言われます。それは「良い人は良いことばを話し、悪い人は悪いことばを話す」と言っておられるのです。

聖書が語る良し悪しは、神が基準になっています。 それで先ほどのことばを言い換えますと「神に仕える人は神のことを話し、世に捕らわれている人は世のことを話す」となります。

また「話す」ことには、行いも含まれます。従って「神に仕える人は、神のことを話し、神のために行動するのです」。そして「神を知らない人は、世のことを話し、自分のために行動するのです」。

では私たちは一日を振り返って、どれほど神のことばを語り、どれほど神のために行動し、どれほど神のために時間を使っているでしょうか。

そのようなことを思いますと、私たちは自分の心の中にまだまだ悪いものが残っているのを教えられます。

人はすぐに、世のものに引き付けられてしまいます。ともすれば私たちも、世の魅力に惑わされてしまいます。世に惑わされている者は、さばきの日に申し開きはできません。(36節)

あのパウロも、『私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか』と嘆いています。(ローマ7章24節)

ましてや私たちは、神の前に<本当にみじめな人間>です。  もちろんそれで良いはずはありません。私たちの心の倉は”良いもの”で満たされなければなりません。

どうすればよいのでしょうか? パウロは続けて言います。『私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します』。(ローマ7章25節)

イエス様は、私たちの心の倉に良いものがほとんどないことを知っておられます。そして、私たちの心の倉を良いもので満たしてくださるのもイエス様なのです。

イエス様は言われます。『わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます』。(ヨハネ15章5節)

そうです。私たちの心の倉を良いもので満たすためには、私たちはイエス様にとどまっていなければなりません。

そのことは、私たちがイエス様の十字架の死によって罪が赦され、永遠のいのちが与えられたことを感謝することです。

この待降節の時、私の罪を赦すために、イエス様が地上に生まれてくださったことを、深い感謝をもって過ごさせていただきましょう。

その時あなたは、心の倉が良いもので満たされ、<良い木>とされるのです。

アーメン