<讃美歌>讃美歌245番「神のみことばは」

<聖書日課>ルカ4章16~30節「聞いて信じる信仰」

イエス様が故郷であるナザレの会堂で、安息日に説教をされました。

当時は、皆が一人ひとり聖書を持っているわけではありません。会堂に一冊置いてあり、良く知っている者(祭司やパリサイ人)がみことばを読み説教をして、皆がそれを聞いていたようです。

イエス様は、祭司やパリサイ人ではありませんでしたが、よく会堂での説教を任されていたようです。

この日は、イザヤ書61章1,2節のことばが与えられました。

『わたしの上に主の御霊がおられる。貧しい人々に福音を伝えるように、‥主はわたしを遣わされた。

捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。‥』

このことばを読んで、イエス様は「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたがきいたとおりに実現しました」と言われました。

イエス様は、ご自分が神の霊を受けた者であり、心の貧しい者に福音を語るために遣わされた者であり、罪に捕らわれた人々に赦しを与える者であり、人々の心の目を開ける者であると宣言されたのです。

そのイエス様のことばを聞いた人々は二つの応答を示しました。

一つは、イエス様をほめ、そのことばに驚いたことです。ほめるとは、証言することです。「イエス様はまことにそのような人だ」と認めたのです。 これは ”聞いて信じる信仰” です。

もう一つの応答は、奇蹟を求めたことです。イエス様はカペナウムの町で多くの奇蹟を行われました。ナザレの人々は興味本位で自分たちも奇蹟を見たいと言ったのです。

それは、ただ自分たちの心を満足させたいがための要求でした。

その要求に対してイエス様は、サレプタのやもめの話と、シリヤ人ナアマン将軍を例に挙げ、真の預言者は、自分の郷里では歓迎されないと言われたのです。

郷里の人々はイエス様を小さい時から見ている、知っている。一緒に遊び、一緒に働いた。

その印象が邪魔をして心の目でイエス様をキリストとして見ることができなかったのです。

ナザレの人々は、イエス様の口から出る恵みのことば(22節)を聞いて信じればよかったのです。

へブル人への手紙に次のみことばがあります。

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです』(へブル11章1節)。

今、私たちに求められていることも ”聞いて信じる信仰” です。

新約聖書の中でイエス様は、「聞く耳のあるものは聞きなさい」とのことばをよく言われていますが、私たちは、さらにみことばに聞いて ”聞いて信じる信仰” を深めたいものです。

アーメン

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