
<讃美歌>讃美歌14番「わが心は、あまつ神をとうとみ」
<聖書日課>ルカ7章31~35節「神の知恵の証明」
この段落は、イエス様の”謎かけ”の形式をとっています。
イエス様はここで、バプテスマのヨハネの呼びかけにも、イエス様ご自身の呼びかけにも応じないで
何かと文句を言っている人々のことを語っておられます。
31節の「この時代の人々」とは、おもに30節のパリサイ人や律法学者を指しています。
ご存じのように彼らは、バプテスマのヨハネの呼びかけにも応えず、悔い改めの洗礼を受けませんでした。イエス様の福音のメッセージを聞いても、それに従おうとはしませんでした。
32節の「市場にすわっている子どもたち」とは、自分たちの思いと違うことを言われたため、駄々をこねて座り込み、動こうとしない身勝手な人々を指しています。まさにそれが、パリサイ人&律法学者なのです。
バプテスマのヨハネは、「罪を悔い改めなさい。そうしないと滅びますよ」と言って人々に罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを受けることを勧めました。
しかし、パリサイ人/律法学者は、「自分たちは、神の選民だから滅びない」と言ってヨハネの呼びかけを拒否しました。彼らは、ヨハネの弔いの歌を聞いても、ヨハネを非難するだけで、自分たちの罪深さを泣くこともなかったのです。
イエス様は、「わたしを信じれば、罪が赦されて天の御国へ行けますよ」と言って、人々に福音を伝えました。
しかし、パリサイ人/律法学者は、「自分たちは、旧約聖書の律法を守っているから大丈夫だ」と言って、イエス様の福音を受け入れることを拒否しました。
彼らは、イエス様の福音の笛の音(キリストとの婚礼の調べ)を聞いても、ただ座って文句を言うだけで、立ち上がって踊ることをしなかったのです。
パリサイ人や律法学者にとっては、バプテスマのヨハネの叫び声も、イエス様の優しい導きの声も
ただやかましい騒音であり、無価値なもののように思えたのです。
私たちも祈っても、祈りの答えが期待したものとは違うことがあります。祈っても状況がさらに悪くなっていくように思えるときもあります。そのような時、私たちはイエス様を拒否するでしょうか。
いや、神の子どもたちである私たちは、神様の知恵の正しいことは良く知っています。
神様の正しさをこれまでに幾度となく経験して知っているからです。 世の人は、今は、神様の声を聞こうともしない人々かもしれません。
しかし私たちは、神様の知恵の正しいことを証しする者として世に遣わされています。
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