
2024年09月18日(水)
<讃美歌>讃美歌386番「十字架のものとに」
<聖書日課>ヨハネ7章25~36節「神の摂理の中で」
30節に『人々はイエスを捕らえようとしたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである』と記されています。
ここに私たちは、すべてのことが神の摂理の内に導かれていることを教えられます。
30節の彼らとは、イエス様を逮捕して殺そうとたくらんでいたユダヤ人たちです。具体的には、祭司やパリサイ人と呼ばれていた人々です。
彼らは、律法を厳格に守ることを人々に教えていましたが、イエス様は安息日に病人を癒したり取税人と食事をされたりして、彼らの教えに反することをされていました。
それで彼らは、イエス様に反感を抱き、殺すことを計画したのです。そして最終的には、イエス様は彼らに捕まって十字架で殺されることになります。
しかし30節のみことばは、イエス様の十字架の時はまだ来ていないことを告げています。30節の「イエスの時」とは、イエス様が全人類の罪を贖うために、十字架で血を流される時です。
この時イエス様は、祭りに参加するためにエルサレムへ行かれました。その祭りは<仮庵の祭り>です。秋に行われる祭りです。
しかし、イエス様が十字架で血を流される時は、春の<過ぎ越しの祭り>の時と決められていました。 だからユダヤ人たちは、イエス様を捕まえたかったけれど、誰もイエス様に手を出すことはできなかったのです。
ここに神の摂理が働いています。神はご自分のご計画を遂行されるにあたり、人の想いに影響されることなくご自分のお考えに基づいて実行されるのです。
今も、神の摂理は働いています。神はご自分の栄光を現すために人を用いられます。
私たち八鹿教会の一人ひとりも、神の摂理に基づいて神の栄光を現すために導かれた者たちです。 ですから、私たちが神の栄光を現そうとする時、神がともに働いて下さるのです。
これからも、三位一体の主が、神の摂理のもとに私たちとともに働いて下さり、私たちの信仰生活を、更に恵みに満ちたものと変えてくださいますように願っております。
『神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、 私たちは知っています』(ローマ人への手紙8章28節)
アーメン