
<讃美歌>讃美歌370番「しずけき祈りの」
<聖書日課>ルカ19章45~48節「祈りの家」
この出来事は、イエス様の公生涯の最後の一週間の月曜日の出来事です。一般的に「宮きよめ」と呼ばれています。
イエス様は、我慢ならなかったのです。その週の木曜日の夜には、イスカリオテ・ユダの裏切りにより逮捕され、金曜日には十字架が待っています。
イエス様の心は、父なる神様がご計画された、すべての人の罪を赦すために、ご自分が贖いのいけにえとなることで張り裂けんばかりでした。今、人類の救いが完成されようとしているのです。
そのような緊迫した状況で、人々は金もうけばかりに気が向き、神様の救いのみわざの完成のことなど、誰も気にしていなかったのです。
イエス様は、我慢ならなかったのです。天の御国は、まさに緊迫した状況を迎えているのですが、地上では、人々は自分勝手なことばかりを考えていたのです。
それも、もっとも神様の御思いを反映されるべき宮の中で、人々はまったく自分のことしか考えられない状態だったのです。
エルサレムの宮は、本来は神様のことを思い、祈りをささげるべきところです。祈りの家となるべきところです。
しかし今、その宮から祈りの声が聞こえなくなり、商売の声しか聞こえない。イエス様は、その状況がやるせなかったのです。
では、私たちの家は<祈りの家>となっているでしょうか。 教会の中で正しく神のみことばが語られ、一人ひとりがそのことばに応答して祈りがささげられているでしょうか。
私たちの家庭の中でも、日々祈りの声が聞かれるでしょうか。
エルサレムの宮が祈りの家であるならば、私たちの教会も、私たちの家庭も<祈りの家>でなければならないのです。
もし、私たちの教会や家庭から祈りの声が消えれば、その場所はまさしく強盗の巣(46節)になってしまいます。
イエス様は、私たちの教会(各家庭も)から祈りの声が、神の前に立ち上るのを期待しておられるのです。
イエス様が「わたしの家は、祈りの家でなければならない」(46節)と言われる時、イエス様は「わたしは、あなたがたの祈りの声を聞きたい。わたしは、あなたの祈りに応えたい」と言っておられるのです。
これからも、八鹿教会の皆様方の祈りの声が、教会の中に、各ご家庭の中に響き渡ることを願っています。
祈りに応えてくださる主が、皆様方の信仰生活を豊かに祝福してくださいますように祈っております。
アーメン
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