
2024年07月24日(水)
<讃美歌>讃美歌346番「はかりも知られぬ」
<聖書日課>ルカ15章1~7節「愛の探し物」
愛の反対語は何でしょうか? 憎しみでしょうか。嫌悪でしょうか。いや、愛の反対語は無関心です。
この箇所のたとえ話は、「失われた一匹の羊のたとえ話」としてよく知られた話です。イエス様はこのたとえ話を、パリサイ人や律法学者たちに語っておられます。
イエス様は彼らに「あなたがたも、百匹持っている羊の中で、一匹がどこかに行ってしまったら、それを見つけるまで捜し歩くでしょう」と言っておられます。
そして、そのことばに続けてイエス様は「だからわたしは、取税人たちや罪人たちと話をするのです」と言われます。ここでは、イエス様とパリサイ人/律法学者たちとの基本的な態度は同じです。
パリサイ人や律法学者も、自分の持ち物の少しでも失ったら見つけるまで一所懸命捜すのです。
しかしながら、彼らは取税人や罪人とは話をすることもなく嫌っていました。何故、パリサイ人や律法学者は、取税人や罪人に神の教えを伝えることもしなかったのでしょうか。
彼らにとっては、取税人や罪人は愛の対象ではなかったのです。彼らは、取税人や罪人は、彼らの罪のゆえに滅んでも仕方がないと思っていたのです。
彼らは、取税人や罪人の救いについては、まったくの無関心だったのです。そのようなパリサイ人や律法学者の態度は、まったく神の愛を知らない者の態度です。
イエス様は、そのようなパリサイ人や律法学者に向かって、このたとえ話を語っておられます。
ここでイエス様は、パリサイ人や律法学者に向かって「あなたがたも、取税人や罪人と呼ばれる人々に愛の態度を示しなさい」と言っておられるのではありません。
「あなたがたこそ、神の前から失われた一匹の羊なのです」と言われています。
パリサイ人や律法学者は知らなかった。自分が神の前から失われていることを知らなかった。
だから、イエス様が自分たちを捜し出すために、天の御国から来てくださったことに気が付かなかったのです。パリサイ人や律法学者たちこそが、神の<愛の探し物>だったのです。
私たちも、神の前から失われた一匹の羊でした。神はそのような私を見い出すために、イエス様を地上に遣わし、十字架で血を流してくださいました。
その上で、誰かを遣わして「あなたは、神の愛の探し物です」と教えてくださったのです。
私たちは、神に見いだされたことをもっと感謝しようではありませんか。
その時に、神はあなたを用いて、誰かに「あなたは、神の愛の探し物です」と伝えさせてくださるのです。あなたによって、誰かが神に見い出されますように。
アーメン