
<讃美歌>讃美歌373番「イエスこそ わが君」
<聖書日課>マタイ6章1~6、16~21節「心の向きはどこですか?」
この箇所は、イエス様の山上の説教の一部です。イエス様は、山の上で多くの群衆に向かって話をされました。(5章1節)
イエス様は、そこで多くの教訓を語られました。その教訓の一つが、「隠れたところでの善行」です。
その当時は、パリサイ人や律法学者と呼ばれる人々が、一般の人々から尊敬のまなざしで見られていました。イエス様は、そのような人々の行いを強く意識して、人々に「彼らのようなことをしてはいけない」と教えられたのです。
この箇所で問題にされているのは、「あなたの心はどこを向いていますか」と言うことです。ここでは、あなたの心の方向性が問われています。
イエス様は、人々の前で善行をしないように注意されました。
・会堂や通りで施しをしないように。 ・祈りも、会堂や通りでしないように。 ・断食も、人に断食していることが分からないようにしなさい。
パリサイ人や律法学者は、そのようなこととは、全く反対のことをしていました。
彼らの善行の目的は、人に認めてもらうことであり、そのために人目に付くところで善行をしていたのです。
彼らは、いかにも「私は神様に忠実な者です」と言わんばかりに施しや、祈りや、断食をしますが、彼らの心は、周りの人々を意識するだけで、神様はそっちのけだったのです。
本来、神様に向けるべき心が、人に向けられていたのです。 本来、神様の栄光を現すべきなのに、自分の栄光を追い求めていたのです。
そのようなパリサイ人や律法学者のことを、イエス様は<偽善者>と呼ばれました。行いに心が伴っていないのです。
私たちは、この記事を読んで「パリサイ人や律法学者は、悪い見本になっている」と思います。でも、そのように感じる私たち自身は、パリサイ人や律法学者を手本としているようなことはないでしょうか。
私たちも「周りの人々は、私のことをどのように思うだろうか」と強く意識するあまり、神様のためにすべきことができないということはないでしょうか。
イエス様がここで問題にされていることは、<あなたの心の向き>です。
私たちの心が、世の富や名誉に占領されている時、必然的に心は神様から離れてしまいます。イエス様は、「あなたの心を神様に向けなさい」と言われています。
そうする時に、神様はあなたに大いなる報いを与えてくださいます。
人に必要なのは、世の人々の賛辞ではなく、神様から褒められることです。私たちが、気にすべきことは、世の中の評判ではなく、神様からの評価です。
「隠れた所」とは、世の人々が気づかない所です。世の人が気づかなくても神様は気づいておられるのです。
あなたが心を神様に向ける時、神様はあなたがなすべきことを教えてくださいます。その時、あなたは神様からの報いを受けるのです。
これからも、あなたが、神様からの報いを受け続けられるように願っています。
アーメン
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