
<讃美歌>讃美歌373番「イエスこそ わが君」
<聖書日課>ルカ11章37~54節「心の内側から出るもの」
この箇所は、イエス様がパリサイ人や律法学者たちを激しく非難されたことが記されています。
当時、パリサイ人や律法学者は社会的に、それなりの敬意を払われていた人たちです。
しかし彼らは、そのことのゆえにますます人々から尊敬のまなざしで見られたいとの思いが強くなったようです。
いや、ひょっとしたら彼らは、彼ら自身も気がつかないうちに、高慢の罪の中に落ちてしまっていたのではないでしょうか。
イエス様も、律法で食事の前に清めの洗いをすることが定められていることはご存じでした。しかし、パリサイ人の食卓に招かれたこの時は、敢えて清めの洗いをされなかった。
それは、このことをきっかけに、彼らがうわべのことを必要以上に気にして、本当に気を使わなければならないことをなおざりにしている現状を教えるためでした。
パリサイ人や律法学者たちに対するイエス様のことばは、非常に激しいものでした。
・「あなたがたは、皿の外側はきよめるが、内側は強奪と邪悪でいっぱいだ。」(39節)
・「おまえたちは野菜などの十分の一を納めているが、神への愛はなおざりにしている。」(42節)
・「おまえたちは、人目につかぬ墓のようだ。」(44節)
・「人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。」(46節)
・「おまえたちは預言者たちの墓を建てている。」(47節)
・「おまえたちは知識のかぎを持ち去り、自分も入らず、入ろうとする人々をも妨げたのです。」(52節)
私たちは、このイエス様のことばをどのように聞くでしょうか。
あなたは、『その通りだ。パリサイ人たちは自分中心で物事を考え、神様のことはおろそかにしている』と思われるでしょう。
私たちは、このイエス様のことばから教えられなければなりません。 私の心の内側は聖いだろうか。
パリサイ人や律法学者のように周りの人々からよく見られようと思い、神様のことをおろそかにすることはないだろうか。
私たちは、自分の心の中にも、イエス様が彼らを非難された心の弱さが潜んでいることを知っています。
私たちは、イエス様のパリサイ人や律法学者へのことばを自分のこととして受け止める必要はないでしょうか。 もとより、律法の要求を完全に守れる人はいません。
イエス様がここで求めておられることは、律法に心の目を向けることではなく、神様に目を向けることです。
しかし残念なことに、パリサイ人や律法学者は、イエス様から自分たちの非を指摘されても悔い改めることはせず、かえってイエス様に対する敵対心を強くしました。(53節)
私たちは、日々の生活態度を素直に見直し、神様への思いをより素直なものへと変えていただきましょう。
イエス様は、いつも私たちに叫んでおられます。
『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます』。(マタイ6章33節)
日々の皆様方の信仰生活が、神様に祝福されたものとなりますように!
アーメン
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