
<讃美歌>讃美歌307番「まぶねの中に」
<聖書日課>ルカ7章18~30節「待つべきはイエス・キリスト」
クリスマスシーズンになり、大都会の街路樹はきれいなイルミネーションに飾られ、人々の心も華やかになっています。しかし、私は世のクリスマスに違和感を覚えます。
先日もテレビのニュースでクリスマスについて報道されていましたが、サンタクロースは登場いたしますが、イエス・キリストは全く報じられませんでした。
そのような日本のクリスマスに違和感を覚えるのは、私だけでしょうか。
「クリスマスに私たちが待ち望むものは、もっと別のものではないか」。この思いは、毎年のように私の心にわいてくる感情です。
バプテスマのヨハネは、自分が救い主ではないことは自覚していましたが、誰が待ち望むべき救い主(メシヤ)なのかについて確信がなかったようです。
当時イエス様のうわさはユダヤ全土に広がっていました。ナインの町で死んだ者を生き返らせたからです。(7章11~15節)
その噂を聞いて、ヨハネはイエス様に弟子を送りました。「待つべき方はあなたですか」。
イエス様はヨハネの弟子たちに答えておられます。
「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、‥‥死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている」。
ヨハネには、このことを伝えるだけで十分でした。イザヤ書に次のように書かれているからです。
「神は来て、あなたがたを救われる。そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく」。
しかしながら、一般の人々は世のきらびやかさに惑わされやすいものです。
人々は荒野に出てバプテスマのヨハネから悔い改めのバプテスマを受けましたが、依然として心は世の誘惑に揺れ動いていたようです。
そのような人々は、「バプテスマのヨハネは預言者であり、来るべメシヤだ」と考えていたものも少なくありませんでした。
それでイエス様は、そのような人々に対して、「待つべき方は別にいる。その者はヨハネよりも偉大である」と教えられたのです。
もちろん、その方はイエス様ご自身です。私たちはそのことをよく知っています。しかし、私たちは本当にイエス・キリストを待ち望んでいるでしょうか。待ち望むとは、期待することです。
イエス様の時代、多くのユダヤ人は、まだ心の目は開かれておらず、心の耳も聞こえなかった。
それでイエス様は、「待つべきはヨハネではなく、わたしだ」と語っておられる。
私たちがイエス様に期待すべきことはたくさんあります。この祈り会にも、多くの期待が寄せられています。「私たちが待つべきお方は、イエス様お一人です」。
私たちが、正しい方を待ち望むとき、あなたの期待は現実へと変えられるのです。
このクリスマスの時、あなたがもっと強く、待つべき方を待つことができるように願っています。
アーメン
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