
2025年08月27日(水)
<讃美歌>讃美歌172番「つくりぬしを」
<聖書日課>ルカの福音書6章6~11節「安息日を聖とする」
安息日論争は、イエス様とパリサイ人たちとの間の最大の論争の一つでした。そもそも安息日の起源は、神が六日間ですべての創造のわざを終えられ、七日目にそのわざをやめられたことにさかのぼります。
創世記2章3節には『神は第七日目を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである』。
なぜ神は、何もなさらない日を定められたのでしょうか。わざわざその日を”聖”とされたのでしょうか。
そこに私たちの安息日の過ごし方のヒントがあります。 神は、六日間ですべてのものを創造されて疲れたので、七日目に休まれたのではありません。
神はその日を、人が神のすべての創造のわざをを見て、神をほめたたえる日として制定されたのです。つまり、安息日(七日目)は<神に属する日>として特別に取り分けられているのです。
しかしパリサイ人たちは、安息日を聖とすることを、ただ「働かない日」としてしまったのです。そこには、神が安息日を定められた精神が欠落していました。
安息日は、人が互いに愛と憐れみの精神をもって神を賛美する日なのです。 ですからイエス様は、安息日に会堂で教えられた後、右手の萎えた人を癒され、神の栄光を現わされたのです。
その神の栄光が現わされたわざを見ても、パリサイ人たちは頑なに自分たちを間違った主張を変えることなく、イエス様を訴える口実を見つけようとしています。
そのような、人の粗さがしをするような行いこそ、安息日にはふさわしくありません。
イエス様は言われます。『安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。』 ここで”善”とは、神の御心にかなうこと、すなわち神の栄光を現わすことです。
私たちも、神の憐れみによって生かされている者として、安息日(日曜日)はもちろんのこと、日々神の栄光を現す者として、主に仕える者でありたいと願わされます。
そのような者に、主はさらなる祝福をもって答えてくださいます。感謝して、 アーメン