
2025年02月19日(水)
<讃美歌>讃美歌393番「わが主 イエスよ」
<聖書日課>ルカ11章37~52節「内にあるものを施しに用いなさい」
イエス様は、多くの人にご自分の教えに従うように話をされました。 そのイエス様の教えのことばに、パリサイ人や律法学者たちも驚嘆していたのです。 それで一人のパリサイ人が、イエス様を食事に招きました。
イエス様は、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれました。ただその時イエス様は、律法に定められたきよめの洗いをされませんでした。
もちろんイエス様は、パリサイ人の形式的な信仰を改めさせるためにそのようにされたのです。
パリサイ人は、イエス様がきよめの洗いをされなかったことに敏感に反応しました。聖書には、そのようなイエス様を「見て驚いた」と書かれています。
彼らにとっては、食事の前に身をきよめることは当たり前だったのです。 しかしイエス様は、そのようなパリサイ人の当たり前を批判されました。パリサイ人の当たり前と、イエス様の当たり前は違っていたからです。
彼らは律法の形式的な面ばかりに囚われて、律法の精神をないがしろにしていたのです。つまり彼らは、人の評価を気にして外面的な行動ばかりを重んじて、「いついかなる時でも神を重んじるべきである」との律法の精神を忘れていたのです。
それを思い出させるために、イエス様は「内にあるものを施しに用いなさい」とパリサイ人に忠告されたのです。
私たちも自分の生活を振り返れば、いつの間にか外面ばかりを気にする信仰生活になっていないでしょうか。日曜日の礼拝には出席するが、みことばを真剣に聞いていない。
祈ることは大切だと知っているが、日々の生活の中で神様と一対一になって祈ることを怠っている。また毎日、聖書のみことばを読むこともしていない。
「内にあるものを施しに用いなさい」とのイエス様のことばは、私たちに対する注意でもあります。 パリサイ人が形式主義に陥ったのは、神に目を向けるべき彼らが、人の評価を気にするようになったからです。
同じように、私たちもイエス・キリストから目をそらした時に、神の愛、神の恵が見えなくなり独りよがりな信仰になってしまいます。信仰生活とは、神からの恵みを受け続ける生活です。
これからも、私たちはイエス様を見上げつつ、神からの恵への感謝を忘れずに、信仰生活を続けさせていただきましょう。その時、主はあなたを「内にあるものを施しに用いる者」として導いてくださいます。
主の祝福があなたの上に豊かでありますように。
アーメン