
<讃美歌>讃美歌371番「いつくしみ深い」
<聖書日課>マタイ12章15~21「信仰者の見るべきもの」
イエス様は、パリサイ人との安息日論争の後、彼らがイエス様を殺そうとしているのを知って彼らの前から立ち去られました。
イエス様はパリサイ人との論争を避けられたのです。論争は何の役にもたちません。ただ、互いの主張を繰り返すだけだからです。
ところが、イエス様が片手のなえた人を癒された(13節)ことを知っている民衆は、イエス様の後を追いました。その中には、病の者/肉体的不自由を感じている者もいたのでしょう。
イエス様はそれらの人をみな癒されました。しかしながら、イエス様は癒された人々に「ご自分のことを人々に知らせないように」と言っておられます。
何故でしょうか? 人々は、イエス様の本当の姿を知らなかったからです。
イエス様はご存知だったのです。人々は、ただ病を癒す不思議な力を持っている者としてイエス様を理解していたのです。
人々は、そのような不思議な力をもって、自分たちをローマの圧政から解放してくれる救い主を求めていたのです。
それ故、この福音書を書いたマタイは、イエス様がご自分を知らせないように言われたのは、まことの救い主としてイエス様がご自分を世に現わすための預言が成就するためだと言っています。
キリストとしてのイエス様は、力で世の悪を滅ぼす方ではなく、愛といたわりの心で神の裁きを行われる方だからです。
18節の「彼(キリスト)は異邦人に公義を宣べる」とは、「すべての民にさばきを宣べ伝える」との意味です。
キリストのさばきは ”いたわりの裁き” です。今にも折れてしまいそうな葦を折ることもなく、消えそうな灯心も消すこともありません。
イエス様はご自分を信じる者には、そのような神の愛をもって接してくださいます。
マタイがそのような方としてイエス様を紹介していることは、私たちへのメッセージです。私たちは聖書のみことばから、イエス様はどのような方なのかを教えられます。
確かに、ご自分を受け入れない者に対するさばきは厳しいものがありますが、みことばはすべての人に正しいイエス・キリストの姿を語っています。
ここで私たちが見るべき救い主の姿は、弱い者をいたわる救い主の愛の姿です。
「弱っている者をいたわる愛」。それは、神から私たちに求められている信仰者の姿勢です。何故なら、私たちも弱っているときに神に助けられたからです。
2023年の新しい年は始まったばかりですが、八鹿教会はこれからも「弱っている方に手を差し伸べる教会」として、神に仕えていきたいと願っています。
皆様方の心の内に、神の愛が満ち溢れますように願っております。
アーメン
Write a comment: