
<讃美歌>讃美歌453番「栄えあれ、死に勝ちて」
<聖書日課>ルカ9章37~43a節「信仰者の原点」
人はよく「信仰があれば、何でもできる」と考えます。でも信仰は「自分には何もできないと知ることです。」 その事を弟子たちも誤っていました。
12弟子たちは、イエス様から権威を与えられて村々を回り、病人を癒し、悪霊を追い出しました。(9:1~6)
イエス様が5つのパンと2匹の魚で5000人もの人々を満腹にされた奇蹟を見ました。(9:12~17) またペテロとヤコブとヨハネは、高い山でイエス様がモーセとエリヤと話をしておられるのを見せられました。(9:28~36)
それらの経験を通して、弟子たちは「偉大な神の力を持っておられるイエス様の弟子である自分たちにも、神の力が与えられている」と勘違いするようになりました。
それで弟子たちは、一人の父親から頼まれて、その息子から悪霊を追い出そうと試みました。もちろん弟子たちには、悪霊を追い出すことはできませんでした。
弟子たちは思ったことでしょう、「以前、村々を回った時はできたのに、どうして出来ないのか」と。
弟子たちは、自分たちの内に悪霊を追い出す力があると勘違いしていました。弟子たちは、信仰者となることは、神の力を獲得することだと勘違いしていました。
真の信仰者とは、自分の内には力はないけれど、主イエス・キリストによって何でもできることを知る者です。 その意味で、「信仰とは、イエス・キリストに頼ること」です。
そのため、イエス様は弟子たちをなげかれました。「あゝ、不信仰な、曲がった今の世だ」と。
私たちも勘違いしていないでしょうか? 自分の信仰をもう一度、主の前にさらけ出す必要はないでしょうか。
2022年も半分が過ぎようとしています。今年の八鹿教会のみことばは、エレミヤ書33章3節です。
「わたしを呼べ、そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を超えた大いなる事を、あなたに告げよう」。
”わたしを呼べ” とは ”わたしに祈れ” です。 「祈ること」、それは信仰者の原点です。
私たちも、日常生活の中でも、教会生活の中でも、祈るべき課題を幾つも持っています。
それらの課題を、もう一度、イエス・キリストのみ名によって神のみ前に祈ろうではありませんか。
その時、私たちはイエス様によって何でもできる者とされるのです。
これからの、皆様方の信仰生活が、一層イエス様に頼るものとされますように‥。
アーメン
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