
<讃美歌>讃美歌374番「たよりまつる わが主よ」
<聖書日課>マタイ20章29~34節「主の憐れみにより頼む」
10月24日の礼拝では、マルコの福音書10章46~52節よりイエス様がエリコの町でバルテマイの目を癒された記事から、私たちも、主に必死にすがって祈り求めなければならないことを教えられました。
今回祈祷会の聖書日課の箇所(マタイ20章29~34節)は、その並行箇所です。
礼拝では、バルテマイに注目して、彼の心の思いから教えられましたが、今回はマタイの福音書から
イエス様に注目して教えられたいと思っています。
マタイとマルコの”盲人の癒し”の記事は、並行箇所なのですが、この二つの箇所には大きな違いがあります。
マルコの福音書では、癒されたのはバルテマイ一人ですが、マタイの福音書では「ふたりの盲人が‥」となっています。おそらく、二人のうちの一人がバルテマイなのでしょう。
マタイ20章34節に「イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた」とあります。
マルコの記事では、イエスさまがさわられたことは記されていませんでした。
さて、マタイ20章34節で注目したいことばは、「かわいそうに思って」です。
礼拝説教でも話しましたが、その当時、目が見えないことは罪の結果であるとみなされていましたので、今、この道端にすわっている二人が、目が見えないことは自分たちの罪のためであり、自業自得とされたのです。
従って、誰も二人が、目が見えないことを「かわいそうに思う」ことはありませんでした。
イエス様は、すべての人が気に留めない二人の盲人を哀れに思ってくださったのです。
イエス様は、その二人の盲人に触れられて目を癒してくださいました。
その後、二人はイエス様につき従う者とされたのです。
私たちも、心の目が見えなかった盲人でしたが、主の憐れみにより見えるようにされ、イエス・キリストを「私の罪からの救い主」として信じる者とされました。
それは、一方的なイエス様の憐れみであり、私たちの功績は何もありません。それでは私たちはどれほど主に感謝しているでしょうか。
二人の盲人は、目が見えるようにされたことを感謝してイエス様の弟子となりました。
私たちは、心の目が開かれて罪の滅びから解放されましたが、「もっとイエス様に従いたい」との思いが沸き起こっているでしょうか。
人がイエス様にすがればすがるほど、その人のうちに感謝が沸き起こり、恵みが増し加えられるのです。
私たちも二人の盲人のように「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」と叫ぼうではありませんか。イエス様は、あなたがより一層ご自分にすがってくることを待っておられます。
アーメン
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