
2023年8月16日(水)
<讃美歌>讃美歌371番「いつくしみ深い」
<聖書日課>マタイ8章23~27節「主がともにおられる平安」
16日の礼拝では、5,000人の給食の後、弟子たちだけでガリラヤ湖を渡ろうとした時に、嵐によって舟が進めない時に、イエス様が水の上を歩いて弟子たちに近づいて来られたところからみことばを聞きました。
その時、弟子たちはイエス様を見て恐れました。でも、信仰者はイエス様とともにいることを喜ぶ者です。
この箇所でも、弟子たちはイエス様とともにガリラヤ湖を渡っている時に嵐に遭遇して、舟が沈みそうになり恐れました。
イエス様がともに舟に乗っておられるのに、ガリラヤ湖の波と風を見て恐れたのです。
イエス様は弟子たちに言われます。「どうして怖がるのですか、信仰の薄い者たち」。これは叱責のことばです。
私たちは、イエス様から目を離した時に恐れを覚えます。
ちょうど、イエス様が水の上を歩いて弟子たちの乗る舟に近づいて来られた時、ペテロがイエス様にお願いして水の上を歩いた時、イエス様から目をそらし、波風を見て恐れたように、私たちも、人生のいろいろな波風に目を向けるとき、恐れに捕らわれてしまいます。
26節のイエス様の叱責のことば「どうして怖がるのですか、信仰の薄い者たち」は、私たちへのことばです。
イエス様は、「わたしがともにいることが分かっていれば、恐れることはない」と言われるのです。
私たちの人生を振り返る時、私たちはイエス様がともに歩んでくださっていたことが分かります。
そのイエス様が、これからもともに歩んでくださらないはずはありません。だから主は「怖がるな」「平安であれ」と言われるのです。
” Foot Print ” という詩があります。正確なことばは覚えておりませんが、このような内容です。
海岸に二人分の足跡が残っています。それは、私がイエス様とともに歩んだ人生の足跡です。でもところどころ、一人分の足跡しか残っていない処がありました。
それもその処は、その時までの人生で最も辛い時でした。私は、イエス様に言いました。「何故、私がもっとも辛い時に、ともに歩んでくださらなかったのですか」と。
イエス様は答えられました。「いやその時は、わたしがあなたを背負って歩いていたのです。だから、一人分の足跡しか残っていないのです」と。
これまでの人生、また今の信仰生活をよく見ると、私たちはいたるところにイエス様の足跡を見つけます。
主の恵みは、イエス様がともにおられることを喜ぶ者の上に注がれるのです。
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