
2024年06月12日(水)
<讃美歌>讃美歌402番「うれしき恵よ」
<聖書日課>ルカ11章14~28節「不幸な者と幸いな人」
この箇所は「ベルゼブル論争」としてよく知られている話しです。9日の礼拝説教では、マルコの福音書3章に記されている「ベルゼブル論争」から話しました。
マルコの福音書3章を読めば分かりますが、イエス様は律法学者と論争されています。律法学者は、聖書に精通している者であり、「聖書の内容については、イエスよりもよく知っている」と自負している者たちです。
そのような彼らですから、イエス様が行っておられるわざを見れば、それが神の力で行われているのか、それともベルゼブルの力でなされたのか、一目瞭然で分かるはずです。
福音書記者ルカは、11章14節で『イエスは悪霊を追い出しておられた。それは口をきけなくする悪霊であった。 悪霊が出て行くと、口がきけなかった人がものを言い始めたので、群衆は驚いた。』と記しています。
そのことに関連して、イザヤ書にこのように預言されています。『そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。』(イザヤ35章5, 6節)
イザヤ書の「そのとき」とは、救い主が現れる時です。律法学者たちは、その預言のことばをよく知っております。
イエス様は、律法学者の目の前で、口のきけない者の口を開かれました。それは、救い主到来のしるしです。 にもかかわらず、律法学者たちは『ベルゼブルによって、悪霊どもを追い出している』とイエス様を非難しました。
律法学者は、「自分たちは律法を守っている正しい者だ」と主張しますが、彼らは、救い主のしるしを目の当たりにしながら、救い主が見えなかったのです。その意味で、彼らは不幸な者でした。
そしてイエス様の一連の話を聞いた一人の女性が叫びました。「あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は幸いです」と。
その女性は、同じ母親として、我が子がイエス様のようなすばらしい知恵をもって人々を教えている姿を連想して、母親の幸せを連想したのでしょう。 その女性の気持ちもよく分かります。
しかしながらイエス様は、「神のことばを聞いてそれを守る人です」と言われます。
人は、神のことばを聞けば、その声に従わざるを得ません。神の命令は絶対だからです。でも多くの人は、聖書のことばが神のことばであることを知りません。
私たちは、聖書のことばを神のことばとして受け止めているでしょうか。その問いは、イエス様を自分の生活の中心においているかとの問いに置き換えられます。
神のみことばを聞いて、それを守る人。 その人には<永遠のいのち>が与えられるのです。イエス様は、そのことを知っており、それゆえに神により頼む人が幸いな人だと言われます。
律法学者は、イエス様を見ながら、そこに神を見ませんでした。
私たちも、聖書の中に正しく救い主のしるしを見つけ、イエス・キリストから目を離さない者でありましょう。 そのような者を、主は恵みをもって導き続けてくださいます。
アーメン