
<讃美歌>讃美歌288番「光のわが主よ」
<聖書日課>ルカ11章33~36節「クリスチャンは世の灯り」
部屋に灯りをともすのは部屋全体を明るくするためです。
その部屋に入ってくる人が、その灯りを見ることが出来るように、誰もが見える処とろに置きます。
イエス様が弟子たちや一般の群衆にこのたとえ話をされたのは、灯りをともして、それを見えにくいところに置いている人が多いからです。
イエス様がここで問題にされているのは<からだのあかり>です。
「人にとって、からだのあかりは目です」(34節)とイエス様は言われます。
「目は口ほどにものを言う」と言われます。その人が健康か、何か問題を抱えて悩んでいるか、その人の目を見れば分かります。
それでイエス様は「あなたのうちの光(目)が、暗やみにならないように、気をつけなさい」(35節)と言われる。この35節は、新共同訳聖書では「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」と訳されています。
私たちの中にある光(目の光)とは何でしょうか? それはどのようにして灯されるのでしょうか?
また、私たちはその光が、暗くなったり消えてしまわないように、いつも注意する必要があると言われています。
その光は、”信仰の光”です。その光は、自分自身の内にある光ですが、自分で灯す光ではなく、イエス様によって灯される光です。
あなたの光は、今、明々と燃えているでしょうか、それとも風前の灯火のように暗くなり消えかかっていないでしょうか。
クリスチャンは、心をイエス様に向けイエス様のみことばによって生かされているとき、目は輝き、生き生きと過ごすことが出来ます。
逆に、その心が世(暗闇)に向かっているとき、うつろな目になってしまい、明るさを失ってしまいます。 『わたしは、世の光です。
わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』 (ヨハネ8章12節) とイエス様が言われるように、クリスチャンも世の光です。
イエス様が世の光として輝かれたように、クリスチャンも世にあって輝かなければならないのです。
そのために、私たちは”みことばの光”によって、常に生き生きと生かされる必要があります。
私たちが、イエス様の光をいただき、その光によって世で輝かせていただくとき、世の人は私たちの内にイエス様を見るのです。
そのようにして、救い主を知らない暗い世におられる人々に、あなたが光を放つとき、あなたは「燭台の上の光」として用いられるのです。
これからもあなたが、主の光として輝かれますように祈っております。 アーメン
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