
2024年06月05日(水)
<讃美歌>讃美歌337番「やすかれ わが心よ」
<聖書日課>ヨハネ5章1~18節「キリストにある自由」
ベテスダの池は、エルサレムの北部にある池です。その池には5つの回廊があり、そこに多くの病人が横になっていました。
彼らは、池の水面に注目していました。「池の水がかき回された時、最初に池に入った者は病が癒される」との言い伝えがあったからです。実は、この池の底には間欠泉があり、定期的に池の水がかき回されたようです。
その池の周りに集まっている病人の中に、38年間足の病気で歩けなくなっている男がいました。その男は、そこに集まっている病人の中で最も絶望的な者だったのでしょう。
イエス様はその男に「良くなりたいか」と声をかけられました。 イエス様のこのことばは、ある意味残酷です。38年もの間歩いたことがないのです。
良くなりたいがゆえに、ベテスダの池のふちに座って水がかき回されるのを待っているのです。でも足が悪いゆえに、水が動いてもすぐに水の中に入ることができず、他の者が先に入ってしまいます。
そのような状況でも、その男は「水が動くこと」に期待せざるを得なかったのです。 そのような状況でイエス様は、この男に声をかけられました。「良くなりたいか」と。
このイエス様のことばには、「あなたはそのままではいけない。わたしに従いなさい」との響きがあります。
ベテスダの池の周りの5つの回廊。それは、律法の書であるモーセ五書(創世記~申命記)を表しているとも見ることができます。
イエス様には、池の周りの病人たちは、律法の教えにがんじがらめにされ、身動きできなくなっているように映ったのです。イエス様は、この男に「律法から解放されて、わたしを信じなさい」と言われています。
それでイエス様は、この男に「起きて床を取り上げ、歩きなさい」と言われたのです。それでその男は、からだに急に力が湧いてくるのを感じ、床を取り上げて歩き出しました。
ところがその日は、安息日でした。それで、その状況を見ていたユダヤ人たちは言います。 「今日は安息日だ。床を取り上げてはいけない」。
ここで、ユダヤ人とは律法にがんじがらめにされている人たちのことです。安息日の決まりでは、床を取り上げることは仕事であり、許されていないことでした。
そうです。イエス様が言われたことは「律法から解放されなさい。そしてわたしに従いなさい」ということだったのです。
38年間歩けなかった男は、この池の周りにいた病人の中で最も悪い状態の者のように見えましたが、ユダヤ人たちの方が、もっと悪い状態だったのです。
ユダヤ人の方こそ<律法の病>から解放されねばなりませんでした。
私たちも、目先の悪い状況から解放されることに心が向いてしまいがちですが、私たちのすべての必要をご存知であるイエス様に、すべてを御委ねして信仰生活を過ごさせていただきましょう。
その時、あなたは「イエス・キリストにある自由」を獲得する者とされるのです。