
2025年05月14日(水)
<讃美歌>讃美歌373番「イエスこそわが君」
<聖書日課>ヨハネの福音書10章31~42節「イエス様を見つめる」
ユダヤ人たちは、イエス様を石打ちにして殺そうとしました。 それはイエス様が「わたしと父とは一つです」(10章30節)と言われ、ご自身を神と同じ位に置かれたからです。
ユダヤ人たちは、そのようなイエス様を「神を冒とくする者」と決めつけたのです。 ヨハネの福音書の中では、ユダヤ人は「イエス様に反対する者」として取り上げている箇所が多くあります。
もちろんユダヤ人たちも、聖書の神を信じて救い主を待ち望んでいます。 しかし彼らは、イエス様へのねたみに燃えていたため、イエス様を正しく見ることができなかったのです。
では私たちはどうでしょうか? 私たちはイエス様を正しく見ているでしょうか。
イエス様を正しく見るとは、イエス様が救い主キリストであると頭で理解することだけではありません。それは、トマスが告白したように、イエス様を個人的に「私の主、私の神」と告白することです。
そのことは、私たちの信仰生活の中で、イエス・キリストを常に自分の横に置くことではないでしょうか。
私は思います。日本でイエス・キリストの福音がなかなか伝わらない一つの要因は、クリスチャンがイエス様を正しく見ていないからではないでしょうか?
イエス様は、常にあなたを見ておられます。でもあなたは常にイエス様を見ておられますか。信仰生活とは、常にイエス・キリストを見つめる生活です。
ユダヤ人たちは、律法の色眼鏡を通して見つめたために、イエス・キリストを見誤りました。私たちも、この世の習慣や世的な常識を通してイエス様を見ていないでしょうか。
人は、この世的な色眼鏡を通してイエス様の愛を見ることはできません。 キリスト者である私たちは、原点に立ち返り、み言葉によってイエス様を見つめなければなりません。
そうするときに、あなたは聖霊によってあなたに対する神の愛の大きさに気が付かされるのです。あなたはきっと、イエス様が常にあなたのすぐそばにおられることに気が付かれるでしょう。
これからのあなたの信仰生活が、常にイエス・キリストを見つめる生活でありますように願っております。
アーメン