<讃美歌>讃美歌333番「山辺に向かいて われ」

<聖書日課>ヨハネ10章31~42節「よいわざの声を聞き分ける」

この箇所は、8日の説教の続きです。宮清めの祭りの頃、イエス様はエルサレムの宮でユダヤ人たちと話しておられます。

ユダヤ人(パリサイ人や律法学者)たちは、イエス様の話を聞こうとせず「あなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください」と詰め寄りました。

それに対してイエス様は「わざによって、わたしがキリストであることを言ったが、あなたがたはわたしの声を聞き分けない」、と指摘されました。

そして、最後に「わたしと父とは一つです」と宣言されています。

そのことばに、またユダヤ人たちはつまずきました。彼らはイエス様を石打にしようとします。

ユダヤ人たちは言っています。「よいわざのためではありません。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです」。彼らはイエス様のわざに現れている神様の声を聞き分けられませんでした。

イエス様は山上の説教の中でこのように言われています。

「良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。」(マタイ7章18節)

ユダヤ人たちは、イエス様のわざが良いと認めるなら、イエス様は神から遣わされた方であることを知らなければならなかったのです。

ユダヤ人たちは、イエス様のわざの中に、神の声を聞くべきだったのです。

ユダヤ人たちは、イエス様に対する妬みのゆえに神の声を聞こうとしなかった。そこに彼らの罪がありました。

では、私たちは神様の声を聞き分けているでしょうか。

八鹿教会では、このところ何人もの新しい方々が礼拝に集ってくださいます。教会員の一人ひとりも喜んで礼拝に出席され、神様を賛美されています。

それに応えて、神様は新しい方を次々に礼拝に送ってくださっています。すばらしい神様のわざです。私たちはそこに、神様の祝福を見ないでしょうか。

ここ数年、私は八鹿教会が変わって来たと感じています。

八鹿教会が変わったことは、そこに集う一人ひとりが、良い実を結ぶ良い木としてますます成長されているということです。

これからも、八鹿教会の一人ひとりが、神様の祝福の声を聞き分け、良い木として成長されますように願っています。

アーメン

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