2025年11月12日(水)
<讃美歌>讃美歌238番「いのちの糧 主よいま」
<聖書日課>ヨハネの福音書5章19~29節「いのちの扉」
この箇所には「まことに、まことに、‥」との表現が三度も繰り返されています。この表現は、イエス様が「これから語られることの重大性」を強調されるときに使われるものです。
ここでイエス様は、何を語られたかったのでしょうか? 次のことばに注目しましょう。
21節『子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます』。24節『死からいのちに移っています』。 25節『死人が神の声を聞く時が来ます』。
そうです、イエス様は「死んでいる人々にいのちを与えたい」と願っておられるのです。
そのように言われますと、多くの人々は反発します。「私は生きている。死んでいない」と。でもイエス様のお考えは、人間の思いをはるかに超えて正しいものです。
ここでイエス様は、「人は肉的に生きていても、真の神を信じないなら霊的に死んでいる」と言われます。つまりイエス様は、「人は、霊的に生きることを求めなければならない」と言われるのです。
24節でイエス様は『わたしを遣わされた方を信じる者は、‥』と言われますが、これは「神への信仰が霊的いのちの始まりであること」を明確に示しています。
25節でも、『死人が神の声を聞く時が来ます。今がその時です』と言われています。
これは「霊的に死んでいる者が、福音を聞いて生きる者となる。そしてイエス様ご自身の到来によって、霊的いのちが今ここに始まること」を宣言されたのです。
ここでイエス様は<死といのち>について語り、「あなたがたは死んでいてはいけない。生きる者となりなさい」と熱心に語っておられます。
「死」とは神との交わりを持たないことであり、「いのち」とは神との交わりに生きることです。そしてその鍵を握っておられるのがイエス様です。
実にイエス様は、すべての人の<いのちの扉>です。私たちはイエス・キリストを自分の罪からの救い主と信じています。ですからあなたは生きています。
しかし、どの程度元気に生きているでしょうか。中途半端ではなく徹底的に永遠のいのちに生かされたいものです。
私たちの霊的いのちの源であるイエス様のことばに従い、更にいのちの扉を押し開き、この地上にあっても永遠のいのちのすばらしさに生かされたいものです。
それが、クリスチャン人生の醍醐味ではないでしょうか? 八鹿教会のすべての方々が、永遠のいのちの深みに進まれますように願っております。 アーメン