2024年10月20日(日)
=あなたが真の主の弟子となるために=
<福音書>マルコ10章32~45節
イエス様は弟子たちに「人の子は、祭司長たちに引き渡され、‥」と“十字架と復活の予告”を語られました。私は、そこに“イエス様の孤独”を感じます。
しかしその時、弟子たちは「自分たちの中で誰が一番偉いか」と話し合い、またヤコブとヨハネは自分勝手と思えるような願い事をイエス様に持ちかけたのです。
ヤコブとヨハネは、自分たちだけがより高いくらいに着こうと考えている。そのような世的な思いは、誰の心にも湧き起って来ます。世的なものへのあこがれは、その者を罪へと誘惑することがあります。
それゆえ私たちは、常にイエス様に目を向けなければならないのです。
ヤコブとヨハネは、ガリラヤ湖で働く漁師でした。でも今、彼らはイエス様の事よりも、自分たちの願いを優先する者となっている。過去における献身が、必ずしも現在の信仰状態の保証とはなりません。
そしてそのことは、人は罪の誘惑に陥りやすいものであり、日々自分を捨て、イエス・キリストを見続けることが必要であると教えるのです。
人は、他の人よりも上に立ちたいと願った時、救い主の姿が見えなくなります。クリスチャンとは主の栄光を現すことを第一として生かされる者です。
神の栄光を現すとは、私たちの行動や生き方を通して、神の偉大さやすばらしさを示すことです。自分の栄光を求める者に、神の栄光を現すことはできません。ヤコブとヨハネは、その点において間違っていました。
それでイエス様は二人に言われたのです。『あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません』と。彼らは、これからイエス様が受けられることとなる十字架の苦難の大きさとその背後にある神の愛の深さが分からなかったのです。
だからイエス様は彼らに『わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか』と言われた。それは、罪に対する神の怒りの杯であり、身を圧倒するように迫って来る苦しみです。
イエス様は十字架上で“神の怒りの杯”を飲み、身の毛がよだつような苦しみを忍んでくださったのです。 世的なものを追い求める者が“主の杯”を飲むことはできません。
私たちも、イエス様と同じ杯を飲むことはできません。しかし私たちにも、弟子としての飲むべき杯が目の前に置かれることがあります。そのときあなたは「飲めます」と言えるでしょうか。
言えるかどうかは、どれ程しっかりとイエス・キリストの幹につながれているかに寄るのです。
私たちは、神の栄光を現したいと願いいろいろな奉仕をします。
その奉仕は、イエス様が十字架で血を流して私の罪を赦してくださり三日目に復活され、私に死後の永遠のいのちの確かな希望を与えてくださった、その感謝の思いから自主的に湧き起こされてくる行いです。
そこに報酬を求める心が入り込む余地はありません。
そのため、主の弟子である私たちが持つべき理解は、私たちが「いかに主に仕えることができるか」なのです。そもそも報いを求める者に、純粋な奉仕はできません。
人は目に見えるものにあこがれを抱き、ある程度の確かさを覚えます。でも目に見えるもので、永遠に存続するものはありません。
主は言われます。「目に見えないものを求めなさい。永遠に存在される方に仕えなさい」と。しかし、あなたは神の姿を見ることができない。神の声を聞くこともできない。「だから、わたしがここにいる」と主は言われる。
イエス様は、私たちに父なる神を教えるために地上に来てくださった。
実にクリスチャンとは、イエス・キリストを見上げつつ<人に仕え、神に生きる者>なのです。
あなたが目の前にイエス・キリストを置き<互いに仕え合い、神のために生きる者>とされる時に、主はあなたをこの世においても、本当に価値あるもの“永遠のいのち”に生きる者としてくださるのです。