2024年10月13日(日)
=神に全幅の信頼を置く者とされるために=
<福音書>マルコ10章1~16節
イエス様は、十字架について死ぬために意を決して立ち上がり、エルサレムへ向かおうと歩き出された。多くの人がイエス様のもとにやって来ました。
まずやって来たのはパリサイ人です。彼らの「夫が妻を離縁することは、律法にかなっているか」と問いに、イエス様は創世記のみことばを用いて話されました。「神は彼らを男と女に造られた」。
このみことばが意味するものは、「神が男と女に造られた存在、それが人間だ」ということです。言い換えれば、男性は女性なしでは生きられず、女性は男性なしでは生きられないということです。
ここで“生きる”ということばが問題になります。神は初めに男(アダム)を造られ、ふさわしい助け手として女(エバ)を造られました。そのことは、人がひとりでいる状態は、神の栄光を現すことにおいて不十分なのです。
ですから男と女が結婚するとは「神の栄光を現すために、神によって備えられた互いにふさわしい相手と一つとなって生きること」です。そのように神によって結び合わされ一つとされた夫婦を、人が引き離すことはできません。
イエス様は、離婚の問題を論じながら、真実の結婚を成り立たせる<真実な夫と妻との共に生きる道>を問うておられます。
ですから、ここで私たちが問われているのは、結婚や離婚の道徳的な善悪ではなく、神に対する真実な態度であり、信仰なのです。イエス様は、あなたに“主に対する真実な信仰”を求めておられるのです。
さて次に、イエス様のもとに集まって来たのは子どもたちでした。親たちが、イエス様に自分たちの子の頭に手を置いて祝福して欲しいと願って連れて来たのです。
でも弟子たちは彼らを𠮟りつけました。ですがそのような弟子たちに、イエス様は憤られた。なぜイエス様は憤られたのか。14節には『神の国はこのような者たちのものなのです』とあります。
なぜ子どもは神の国にふさわしいのでしょうか。“子どものような者”とは、弱く、貧しく、親の守りがなければ生きられないなきに等しい者であり、「自分はまったく功績や誇るべきものがない者である」ことを知っている者のことです。
その意味において、先に述べた“夫から離縁を迫られた妻”の立場に共通するものがあります。
イエス様は、真実な結婚のあり方を通して<主に対する真実な信仰>求められましたが、人はその具体的なイメージが分かりません。それでイエス様は「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、‥」と私たちに教えてくださっている。
そのような小さい子どものように、主は、私たちが何の疑いも抱かず、100%の信頼をもってご自分に頼って来るのを待っておられます。
私たちは、まだまだ自分の心の内側に罪があり、“疑いの心”が潜んでいるのを知っています。
そのような私たちですが、みことばを通して、日々の体験を通して、イエス・キリストを見上げ続けるときに、私たちはまさしく子どものように<神の国を受け入れる者>と変えられていくのです。
そして、そのようなあなたを通して、主は福音を世に広めようとされるのです。