2023年09月17日(日)
=あなたが憐れみ深い者となるために=
<福音書>マタイ18章21~35節
人は、罪を犯す者を赦し続けることはできません。それで、イエス様は<家来の大きな負債を赦した王>のたとえ話をされました。
王の前に1万タラントの負債のある者が連れて来られました。それは莫大な負債です。すべての人は、神に対して負債があります。しかし殆どの人は神を認めず、自分の罪を見ようとしません。
人は、神に対する大きな負債(罪)に気がつきません。罪とは、神から離れることです。
さて莫大な負債の返済を求められ、必死に頭を下げる家来を見て、王はかわいそうに思い、彼を赦し負債をすべて免除してやったのです。王が家来の負債を赦すことは、王が家来の借金を自ら支払うことです。
人は、神によって造られたにもかかわらず神を忘れた。それは大きな罪です。その罪の清算を求められる時はいつか来ます。しかし、人は自分の罪の代償を支払うことは到底できません。
それで神は、人をかわいそうに思って、ご自分で人の罪の代償を支払ってくださった。それが、イエス・キリストの十字架の死です。
あなたの罪は、無限と思えるほどに大きくても、神の愛も無限に大きいのです。
しかしその家来は、自分に100デナリの借りがある仲間に出会い、借金の返済を迫ります。家来は「もう少し待ってください」と願う仲間を赦さなかった。
この話において、良い家来と悪い家来の違いは、主人の思いと同じ思いを持つかどうかによって決められています。この家来は、王からはるかに深い憐れみを受けておきながら、仲間に少しの憐れみをも与えることを惜しんだ。そこに、この家来の罪(心の鈍さ)があったのです。
そしてこの家来の姿勢は、私たちにも当てはまります。私たちが、キリストの十字架によってどれほど大きな罪を赦されたか。それを忘れた時、私たちは<心の鈍い者>となるのです。
私たちは、たとえ話の家来のような心の鈍い者であってはならないのです。
神の愛を知る私たちは、このたとえ話を教えられ、自分に対する神の憐みの深さを思わずにはおれません。
そして私たちが、そのような神の想いに気づくところから、私たちの内に、罪の中に滅んで行く人たちへの憐みの心が起こされるのです。