2024年09月08日(日)
=あなたが主によって満たされるために=
<福音書>マルコ7章24~37節
イエス様は、ツロの町でも誰にも気づかれずに滞在することはできませんでした。当時イエス様の評判はどんどん広まり、イエス様は<時の人>となっていたからです。
イエス様は、ツロの一人の母親の前に、彼女の信仰のゆえに姿を現されました。その母親の娘は悪霊につかれていました。
母親は何人もの人に「娘から悪霊を追い出して欲しい」と願ったでしょう。でも誰一人、娘から悪霊を追い出せなかった。
そんな時に、イエス様がツロの町に来られたのです。絶望の暗闇に光が照ったのです。希望の光はツロの町に目立たないようにやって来た。
しかしこの母親は、その光を見逃さなかった。母親は光に向かって一目散にやって来た。そこに、確かな希望があるからです。
この母親は異邦人です。聖書を教えられたことはありません。イエス様に会ったことも、話を聞いたことも、奇跡を見たこともありません。
でもうわさを聞きました。病人を癒し、人から悪霊を追い出されたことを聞きました。それでこの母親は「イエス様なら娘から悪霊を追い出す神の力をもっておられる」と信じたのです。
しかし、頼み続ける母親にイエス様は言われます。『まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くありません』。
ただその母親は、その時、ただ神の恵みとあわれみにより頼む以外に道はなかったのです。その思いをイエス様にぶつけました。28節『主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずはいただきます』。
その母親は聡明な女性です。イエス様のことばに対して、大変謙虚に切り返しました。「イエス様、おっしゃる通りです。ユダヤ人は神の選びの民です。そしてガリラヤは、神の恵みのパンをいただく食卓です。
でも今あなたはガリラヤを離れて異邦人の地ツロまで来られました。神の恵みのパンは食卓から落ちています。だから食卓の下にいる小犬である私も、神の恵みをいただけるはずです」。謙虚であり知恵に満ちたことばです。
イエス様が管理しておられる倉庫には、恵みがいっぱい詰まっています。イエス様はその恵みを一人でも多くの人に分け与え、すべての人を満腹にさせたいと願っておられる。
問題は、神の恵みのパンを差し出されている者が、それを信仰をもってしっかりと受け取るかどうかです。
主は言われます。「あなたは、霊的には神の選びの民です。あなたは、満腹にされていますか」と。満腹にされているかどうかは、あなたがイエス・キリストをどれほど知っているかにかかっています。
ツロの母親は、食卓から落ちるパン屑しか食べませんでしたが、彼女の心は満ち足りていました。イエス・キリストが自分にとって誰なのかを知っていたからです。
心が満ち足りるとは、イエス・キリストが私にとって永遠のいのちの源であることを知っている者だけに与えられるたましいの安らぎです。
イエス様のもとにやって来た母親は、たましいの安らぎを得て帰って行きました。
あなたの心には、イエス・キリストによって罪が赦され、永遠のいのちに生きる者とされた喜びの叫びが満ちていないでしょうか。主は私たちにみことばによって、更なる心の満たしを与えようとされています。
あなたがイエス・キリストに心の目を向け続け、「主よ、この小さき者でも、あなたの食卓から落ちるパン屑はいただきます」と叫ぶとき、主はあなたの心をイエス・キリストを主と仰ぐ喜びで更に満たしてくださいます。
クリスチャンとは、その心がイエス・キリストにより日々満たされる者なのです。