2024年11月24日(日)

=よりイエス様に従う者とされるために=

<福音書>ヨハネ18章33~38節

ピラトはイエス様に「あなたはユダヤ人の王なのか」と質問しました。これは大切な質問です。イエス様が王であると知っている者は、天の御国から遠くないからです。

残念ながら、ピラトには「イエス様は王である」との思いはありませんでした。 しかし私たちは、このことを自分自身のこととして受け止めなければなりません。

「あなたはユダヤ人の王なのか」とのことばは、「あなたは、わたしを王としているか」とのイエス様のことばとなって私たちの心に響いてきます。

私たちがイエス様を王として心に迎えるとは、生活の中心にイエス様がおられ、イエス様を第一として生きることです。

またピラトは「あなたは何をしたのか」と問いただしました。ここに私たちは、神の国と現実の国との激しいせめぎ合いを見ます。

イエス様は神の国の王として、ピラトにも天の御国への道を示すために「あなたは、そのことを自分で言っているのですか」と問われました。

しかしピラトは、今自分が関心を持っていることだけを追求しようとしました。ピラトの目は、この世のものしか見ることができなかったのです。

それでもイエス様の関心事は、目の前で「私はお前を生かすことも殺すこともできるのだ」とこの世の権力を振りかざすピラトに、神の国があることを気づかせることにあったのです。

ピラトはイエス様を見下ろして「この男のいのちは、私が左右できる」と思っている。まさかこの男によって、自分のいのちが左右されるとは夢にも思っていない。それが、この世の栄誉や権力を追い求める者の愚かさです。

世の人たちは現実的な考え方をします。そのような人に、私たちは神の国を教えようとしている。

私たちは、現実の世の後に必ず訪れる永遠に続く世界について語ります。そのことを語り続ける責任があります。何故か、イエス様が語り続けられたからです。

イエス様は言われます「わたしの国はこの世のものではありません」。イエス様の王権は、天の王国の権威に基づくものです。ですから、この世のことにしか関心を示さない者は、イエス・キリストを感じることができません。

またイエス様はピラトに、真理について語られました。真理について分からなければ、誰も天の御国に入ることができないからです。真理とはイエス・キリストそのものです。

真理について知ることは、イエス・キリストを知ることです。37節後半『真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います』。 残念ながら、ピラトは真理に属する者ではなかった。

ピラトはイエス様に「真理とは何なのか」と質問しましたが、その答えを聞く前に、ユダヤ人のところへ行ってしまったからです。

私たちは<何が真理なのか>を知っています。でも私たちは知っていながら、ピラトのように、どこかでイエス様を裁いてはいないか。

「真理とは何か」といの誠実そうに思えることばで裁き、その答えを聞こうともしない。真理に生きていると言いながら、いつの間にか、それを第二、第三のこととして生きていないか。

「真理とは何か」を問いつつも、真理であるイエス・キリストに自分を任すことを拒んではいないか。イエス・キリストを見上げつつ、その声に聞き従うのがクリスチャンです。

私たちは、ポンテオ・ピラトは高慢な男だと思っている。でも私たちも、神の前に高慢な者になっていないか、謙虚になって自分を見つめ直すことも必要です。

私たちは、真理であるイエス・キリストの前に謙虚になって、日々の信仰生活を過ごさせていただきましょう。それが<真理のうちに生きる者>のあり方です。