2024年12月08日(日)
=あなたが福音のことばを語り続けるために=
<福音書>ルカ3章1~6節
聖書の中の思想の一つに<時が満ちて>という概念があります。そのことが起きるために「すべての条件が良いように整えられる」という考え方です。
それで「その時が福音宣教をスタートさせるもっとも良い時である」と神が考えられた時、荒野にいたヨハネに神のことばが臨みました。
荒野とは不毛の地です。何の良い実も結ぶことのできない荒れた土地です。ですが、神のことばは、そのような荒野で語られなければなりません。
“荒野”とは、人の心を象徴しています。神を知らない心は荒野です。荒野の心を持つ者は、神をほめたたえるために“美しい花”を咲かせることもなく、神の栄光を現すために“豊かな実”を生らせることもありません。
神がおられないところ。そこが荒野です。そこには偶像が満ちています。そこでは、人は神に頼ることを知らないからです。
世の人は「神はいない。いたとしても自分には関係ない」と思っている。神を神として認めない心。それが荒野の心であり、その思いは高慢以外の何ものでもない。
バプテスマのヨハネは、荒野の中で過ごしながら、世の人の荒野の心に神のことばを伝えるために、神によって召し出されたのです。
ヨハネは、小さな声で神のことばを語ったのではなく、堂々と大きな声で語ったのです。そのヨハネの姿に、神によって召された者の力強さを感じます。
ヨハネは「天の御国へと導かれるために、罪を悔い改めなさい」と主張しています。 そのヨハネが語ったことばは、今の世にも響きわたっています。なぜなら、罪を悔い改める必要のない者は一人もいないのです。
今、すべての人々に天の御国は示されています。ですから、私たちは常に自分の罪を悔い改めつつ、謙虚になって天の御国へと続く道を歩み続けなければなりません。
また罪には責任が伴います。罪を犯した者は、その代償を払わなくてはならないのです。神は、罪を犯した者が支払うべき代償は“死”であると宣言されました。(創世記2章17節)
そこで語られている“死”は永遠の死です。永遠の死とは、神と完全に切り離されることです。人にとって、神と完全に切り離されること以上に恐ろしいことはありません。
ヨハネが宣べ伝えた悔い改めとは、心の変化です。ヨハネは「あなたの心を神に向けなさい」と宣べ伝えているのです。
荒野には道はありません。道のない所に新たな道をつくるのがヨハネに託された仕事でした。荒野は、神を知らないがゆえに荒れ果てた人の心です。
荒れ果てた人の心には、その者を主である神のところへと導く道はありません。神のところへ行かなければ、その者は滅びます。荒れ果てた心の者は、滅びる以外に道はなかったのです。
神の声はヨハネに命じます、「主の道を用意せよ」と。“主の道”とは、人が神のところへ行くための“新しい生き方”です。
バプテスマのヨハネは、今も叫び続けています。今の世におけるバプテスマのヨハネ。それは、すべての救われたクリスチャンです。
主はあなたに言われます。人々に「あなたの罪は赦されている」と語りなさいと。
人がイエス・キリストを知った時、その者の心にある“深い悲しみの谷”は喜びで満たされ、“高くそびえる高慢の山”は、謙虚で平らな地とされるのです。それが、荒野のである人の心に主の道を用意することです。
私たちは、主が荒野の心しか持ち合わせていなかった者を、イエス・キリストの福音により、今の私につくり変えてくださったと確信しています。
その喜びと平安をもって、私たちの周りを見つめ直した時、私たちは、主イエス・キリストを語らざるを得なくなります。 主は、あなたを21世紀に生きるバプテスマのヨハネ<荒野に叫ぶ者の声>とされたのです。