2024年12月01日(日)
=主から恵みをいただくために=
<福音書>ルカ21章25~36節
「天のもろもろの力が揺り動かされる」再臨の時、どんな現象が起きるのか想像できません。天地万物が揺れ動く時に、人は神以外の誰に頼むことができるでしょうか。
それでイエス様は『これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい』と言われる。それは、元気を出し希望を持つことです。何故か。贖いが近づいているからです。
<贖い>の本来の意味は、奴隷を身受け金を払って自由にすることです。人は、誰かに身受け金を払ってもらわなければ、罪から解放されません。でも身受け金はすでに支払われました。イエス様が十字架の上で支払ってくださったのです。
それでイエス様は弟子たちに、主の日の前兆に注意していなさいと言われます。でも、世のことに夢中になっていると、人は再臨のしるしに気がつきません。
神のことばを神のことばとして受け止めないからです。なぜ受け止めようとしないのか。もっと自分の欲の赴くまま人生を楽しみたいと願うからです。
イエス様は、そのような者の心は「押しつぶされている」と言われます。心が押しつぶされているとは、その人の心に<神を受け入れるスペースがない>ということです。
心に神を持たない者は、神が来られるしるしに気がつきません。だからその者には、主の再臨の日が突然やって来るのです。
それでイエス様は警告されます。33節『天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません』と。
主はここで「天地が滅ぶ時にも、滅びの波に逆らうように立ち得るものがある。それが、わたしのことばだ」と言われています。
そのために、主は『いつも目を覚まして祈っていなさい』と言われる。目を覚ますとは、何かを見るために目を覚ますのです。それはイエス・キリストです。
主は、まったく罪の中に生きていた私を十字架の死によって罪の中から導き出し、イエス・キリストを信じる者へと変えてくださった。その事実を忘れないこと。それが目を覚ましていることです。
「いつも祈っていなさい」と言われることは、祈っていない者がいるということです。人が呼吸を止めれば死ぬように、クリスチャンが祈らなければ、信仰者として死んでしまいます。
では、何のためにクリスチャンは祈るのでしょうか。二つあります。
一つは、信仰者としての個人的な願いを主に訴えるためにです。私たちは、幾つもの願いを持っています。身近な者(親・子ども・友人等)が救われるように祈ります。忍耐が必要です。ですから、祈り続ける力が与えられるようにも祈るのです。
もう一つは、祈りの応えを見るために祈るのです。祈りの応えは必ず示されています。その祈りの応えに気づき、そこに神の意思を見い出すことができために祈るのです。
八鹿教会には、幾つもの祈りの応えが示されました。20人ほどの者がともに集い礼拝を守っている。ここ二年間で、三人の方が洗礼を受けられた。それらは祈りの応えです。
祈らなければ、神からの祈りの応えに気がつかないのです。 逆に祈っている者は、神の祈りの応えを見て喜び、更に祈る力が増し加えられるのです。
そのようにいつも目を覚まして祈っている者が、キリストの再臨のときに安心して「人の子の前に立つことができる」のです。
そしてそのことが、神が人に与えてくださるもっともすばらしい恵みなのです。
いつも目を覚まして祈る。この生き方こそが、再臨を待ち望む私たちにふさわしい生き方です。