2024年11月03日(水)

=あなたがイエス様を正しく理解するために=

<福音書>ヨハネ113244

イエス様も、感情をあらわにされました。

ラザロが死んで四日目も経ったとき、イエス様はベタニヤに来られました。マリアは言います、『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう』。(32節)

マリアは、イエス様が多くの病人を癒されたことを知っていた。でも肝心な時にイエス様がおられなかった。マリアは悔しくてならない。それでマリアは泣いていた。

その様子を見て、イエス様は「霊に憤りを覚え」られ、人類最後の敵である“死”がすべての人を支配している現実を感じ取られた。

なぜ“死”がすべての人を支配するのか。人には罪があるからです。神は人を創造された時、罪がなく死なない者として造られました。しかしアダムは罪を犯した。

罪とは神に背を向けることです。その結果、死が人を支配することとなったのです。

それで神は、人に死をもたらした蛇であるサタンに宣言されます。創世記3章15節『わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ』。

この預言に基づいて救い主が世に来られたのです。ですから、イエス様がこの世に来られた第一の目的は、死を滅ぼし人々に永遠のいのちを与えることです。

イエス様が「霊に憤りを覚え、心を騒がせ」たのは、人類の最後の敵である死に対する挑戦です。

今イエス様は、村の入り口の所におられます。その時、イエス様は泣かれた。35節『イエスは涙を流された』。

イエス様の涙を見て、ユダヤ人たちが言います。『見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか』。(37節)これは、ユダヤ人たちの不信仰を言い表したことばです。

人の目を開けることは救い主メシヤのわざです。にもかかわらず、ユダヤ人たちはイエス様の涙を誤解した。彼らは、救い主の印を見ながらイエス様を拒否したのです。イエス様の涙は、彼らの不信仰を嘆く涙です。

さてラザロの墓の前でイエス様は、蓋の石を取りのけるように言われますが、マルタは「もう臭くなっています。四日になりますから」と答えています。しかし主は言われます「信じるなら神の栄光を見る」と。

私は思います。イエス様は今も泣いておられる。この瞬間も涙を流しておられる。

21世紀のこの時代も、何と多くの人々がイエス様を拒否していることか。何と多くのクリスチャンがイエス様を信じ切ることをしないために、神の栄光を見れなくなっていることか。

ラザロの生き返りの奇跡は、イエス様が神でありキリストであることを明確に示した出来事です。しかしユダヤ人たちは、神の栄光を見ずに、この奇跡をイエス様を殺す決定的な出来事として捉えたのです。

神の栄光を見ることは、イエス・キリストを信じる者だけに与えられた特権です

信仰は、神の栄光を見るための心の目です。信仰によって、あなたはみことばのうちに神の栄光を読み解き、生かされている生活の中に神の栄光を随所に見るのです。

イエス様の祈りよって、ラザロは生き返らされました。マルタやマリアは、そこに神の栄光を見たのです。しかしユダヤ人たちは、イエス様を殺すことしか考えなかった。彼らの心の目は、まったく閉じられていた。

キリスト者の使命は神の栄光を現すことです。そのため私たちは<イエス様の涙>を忘れてはなりません。イエス様は今も涙を流して「お願いだから、わたしを信じて欲しい」と訴えておられます。

今、地上で生かされている私たちも、イエス様の涙を忘れず、さらに神の栄光を現す者とされたいと願わされます。