2024年10月09日(水)
<讃美歌>讃美歌412番「父の神 このわれを」
<聖書日課>マタイ5章27~36節「神の基準」
今日の箇所を読んで、まず思わされることは「神の基準は厳しい」ということではないでしょうか。『情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです』。(5章28節)
何年か前、ある著名な先生が「そうであるなら、私は何回姦淫の罪を犯したか分からない」と言われていました。
他にも、「目がつまずきの原因なら、えぐり出しなさい」。「手がつまずきの原因なら、切って捨てなさい」。その他にも、偽りの証言について、離縁の条件について、ここでは厳しい基準が述べられています。
そのような厳しい基準を突き付けられたとき、私たちは「そんなことを言われたら、誰が救われるのだろうか」とつぶやきます。その通りだと思います。
今のあなたには、神の基準を満足することはできません。でもイエス様はここで、「姦淫を犯すな」、「信仰においてつまずくな」と言っておられるのではありません。
イエス様がこの箇所で言っておられることは、「わたしを信頼しなさい、わたしに従いなさい」です。
人は努力して、神の基準に達することはできません。私たちは不完全な者であり、神の基準は完全を求めるからです。
今ここで、私たちに突き付けられているのは、<私の罪深さ>と<神の潔白さ>です。
イエス様のことばが聞こえてくるようです。「わたしから目を離さないでいなさい。わたしのことばをしっかりと聴きなさい」。
イエス様は常にあなたの前におられ、あなたに話しかけておられます。私たちは世の雑念に捕らわれて、時々イエス様が見えなくなります。イエス様の声が聞こえなくなります。
そのような私たちに、イエス様は警鐘を鳴らしておられます。私たちが、罪が支配するこの世においても、イエス様に信頼して生きる喜びを分かち合うために、主は今も招いておられるのです。
ダビデは言います、『私はいつも 主を前にしています。主が私の右におられるので 私は揺るがされることがありません』(詩篇16篇8節)
これからも、私たちはダビデのように、主とともに歩み、主を見上げつつ生かされる者でありたいと願っています。
そうする時に、主はあなたを<神の基準>に見合うものと変え続けてくださるのです。
アーメン